2022年7月10日
『信仰の法則の中を歩むクリスチャン生活』
第Ⅰコリントの手紙 1:17~25
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(起) 「信仰の法則の中に歩み出し、全能主の全能の力がどんなに偉大なのかを味わって行く、クリス
チャン生活について」学んで行きたいと思います。
(承)さて、最近、教会神学校では、「種類に従って」という本から、進化論の仮説の誤りについて
学んでいます。その中で一番大事なこととして学んでいるのは、「全てが種類に従って造られた」という
現実です。ではまず「進化論とは何か?」という定義について見て行きますと、進化とは「全く自然に、
いかなる外部からの干渉もなしに(神の奇跡的な干渉もなしに)、どこか遠くの海の単一の生命体から、
今日の世界に至る全ての生物が誕生したという、その変化の進行過程である」と定義しています。この
進化の大前提は、自然に行われた変化の過程で無ければ成りません。しかし、聖書には全ての生物が、
「種類に従って、創造主によって造られた」と記されています。これは、どういうことかと申しますと、
例えば、犬にはいろいろな形が存在します。いわゆる雑種という変種がたくさん存在します。しかし、
形は違っても、それらは皆同じ「犬」という種類です。何をもって同じ種類と言えるのかと申しますと、
掛け合わせた時に子孫が残されて行くかどうかです。種類が違うと、掛け合わせても子孫は生まれま
せん。例えば、馬とロバは、見た目は似ていますが、掛け合わせても子は生まれません。しかし、稀に
子が生まれてくる場合があり、それをラバと言うのですが、雄のラバは子を生む能力を持っていません
ので、雄ラバと雌ラバを掛け合わせても、子孫が生まれて来ません。ということは、ラバには子孫が
できないので、新しい種として存在できないのです。たとえ、ラバが生まれても、その種は不稔
となって、新しい種類として存在しないのです。だから、馬とロバは似ていますが、進化した動物には
至りません。しかし、進化論はこの「種類」という壁を完全に無視しています。猿と人間は、一見、
親類のように思われていますが、掛け合わせて子孫は生まれません。なのに、人間が猿の子孫だと、
どうして言えるのでしょうか?それらは、別々の種類であり、進化したものではありません。しかし、
進化論者は、猿は人間の祖先だと勝手に決めつけています。「生物は全て繋がっている」と勝手に主張
して、進化というものが有りうると思い込んでいるのです。頭の良い学者が、皆そのような考えを持って
進化だと言っているのですから、まさに、「知者はどこにいますか。学者はどこにいますか。この世の
評論家はどこにいますか。全能主はこの世の知恵を、愚かにされたではありませんか」(1:20)と
聖書に書いてある通りです。この世の学者は、子供でも分かるようなことを、説明も出来ないのに言い
切っています。それは、全能主の存在を認めたくないからです。彼らは、「全て全能主が造られた」
と結論を出してしまったら、「科学する必要がない」と言って、聖書を馬鹿にし、単なる神話だと言うの
です。しかし、クリスチャンの科学者は、ニュートンを始めたくさんの学者が輩出されています。
彼らは、「みな全能主が創られた世界には秩序があるはずだ」という前提から、その仕組みを研究して
いたのです。これこそが、建設的な研究者です。進化論者は、命の起源を原子のチリという無生物
から、長い時間を掛けて偶然に秩序に満ちた生物が存在したと考えています。しかし、一般の科学者の
間では、エントロピーの法則によって、「秩序を持つ物質は、自然界に放置すれば、その秩序を失う」
という法則を認めています。例えば、リンゴを放置すれば、腐ってその姿は崩れていきます。逆に、
ガラクタを集めて放置すれば、秩序を増して空飛ぶ飛行機になるということは決してありません。
そこには、エネルギーと秩序ある情報を与える智慧在る人格者が存在しないと、秩序を持つ物質は
存在しないのです。しかし、進化論では、自然が秩序を与え、エネルギーを注入したというのです。誰が
そんなことを信じられるでしょうか?ところが、聖書は始めから、生き物は全知全能の全能主によって
緻密に設計され、エネルギーを吹き込まれて存在したとあります。そして、その全能主が存在することの
証明は、「人間という優れた知能を持つ存在を見れば、それは、偶然が造り上げたものでは無いことが、
一目瞭然です」と記しています。ですから、聖書には創造の初めに、全能主が「種類に従って、全ての
生き物を創造した」と言い切っています。この主張こそ、現実の自然界にマッチする科学です。そこで、
全能主は、「宣教の言葉によって、信じる者を救おうとされた(第Ⅰコリント1:21)」と言われまし
たが、それは、全能主が、人間に対して難しい論理や法則を説明して信じさせることはなさらず、
ただ、「わたしは罪人を救うためにイエスを十字架につけ、罪の贖いをさせた。だから、キリストを
信じて救われなさい」と言われたのです。
(転)では、私たちは全能主を信じた者として、これから、どういう信仰の在り方をして行けば良いので
しょうか。ロマ書を見ると、「御霊の法則」と「信仰の法則」の二つが出てきますが、まず「御霊の
法則」とは、どういうものかと申しますと、ロマ書8章3節には「肉の性質の故に無力になったため、
律法にはできなくなっている事を全能主は成し遂げて下さいました」とあります。即ち、救いとは、
私たちの律法の行いによって救われるものではなく、全能主が成し遂げて下さったキリストの贖いが根拠
なのです。そして、これによって、「私たちは罪と死との法則から解放される」とあります。それが御霊
の法則です(8:2)。では、御霊の法則によって、罪と死との法則から解放された者は、どのように
生きて行くのでしょうか。それは、「信仰の法則」によるのです。「信仰の法則」とは、ロマ書3章28
節を見ますと、「人が義とされるのは、律法の行ないによるのではなく、主を信じる信仰の法則による
ことです」とあります。ということは、「全能主を信じ、全能主に委ね、全能主に信頼して行けば、絶対
主が成し遂げて下さる」とあります。それが「信仰の法則」です。ですから、私たちは、まず御霊の
法則によって救いを頂く者となり、救いを頂いた者は、信仰の法則によって生きて行くということ
です。そして、この信仰の法則によって歩む者には、全能主が「信じる者に働く全能の力が、如何に
偉大なものであるかを、あなた方に知らせる」(エペソ1:19)と言って下さるのです。すなわち、
全能主の全能の力によって、全能主ご自身がこの世界の全てをお造りになり、人間を罪から救うお方で
あるということを示して下さるのです。
(結) 私たちの教会には、バイブルランドを作り上げて行くというビジョンがあります。バイブル
ランドを作るためには、たくさんの費用と時間が掛かります。「そんなこと、誰が出来るか」と笑う人も
いるかもしれません。しかし、私たちは信じています。信じる者には、全能主の全能の力がどんなに
素晴らしいものかを示して下さるからです。即ち、私たちがするのではなく、全能主が成し遂げて下さる
のです。それを味わって行くことが、信仰の法則です。どうか、この信仰の法則の中に歩み出し、全能主
の全能の力がどんなに素晴らしいものかを味わって行く生涯としようではありませんか。
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