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2022年7月17日

何をするにも、全能主の栄光のためにして行く』
~被り物の記事より~

第Ⅰコリントの手紙 11:1~16


(起)第Ⅰコリント11章の被り物の記事から、男性は男性としての心構えを持ち、女性は女性

としての慎みの心を持って仕え、「何をするにも、全能主の栄光のためにして行くこと」を学んで行き

たい
と思います。


(承)さて、11章には女性の被り物の件について記されていますが、ここを読むと、全能主が

秩序を
重んじて、人を造られたことがよく分かります。全能主は、男を全能主の栄光と形を持つ

者として創られました(7節)。そして次に、男の助け手として女を造られましたが、女は、男と

同じように創られたのでは
ありません。女は、男の肋骨を取って造り上げられました。ですから、

女は男に属する者として造られたため
(7節)、女は、独自の栄光を持っていません。という

ことは、男と女は対等ではないということです。もし男と女が対等であったのなら、いつも争いが

起り、二人が一体とはなることはできないでしょう。だから、全能主は男と女の間に秩序を重んじ

られ、その秩序の中にあって、女が人前で祈りをしたり預言をしたりする時
には、救いの相続

者に仕えている御使いたちの為にも、その秩序を重んじている証を表す必要があった
のです。どういう

ことかと申しますと、御使いは救いを相続する者たちに奉仕するものです。ですから、
御使いに

奉仕される女性達も、全能主の前に秩序を重んじた生き方をしている者でなければ成りません。という

ことは、その御使いに対しても「私は男の上に権を取る者ではありません。私は男から造られた、

男に属する者ですから、当然、全能主の秩序の中に身を置いて、働きをさせて頂く者です」という

遜りの
姿勢を表わして行く必要がありました。そのために、被り物を被るのです。これが全能主に

あって生きる
秩序ある女性達の姿です。


(転)しかしながら、今現在、世ではこの聖書の論理は完全に否定されており、馬鹿にされて

います。
即ち、「男女は平等であり、対等であり、同権である」という考え方が当たり前のように

主張されている時代
です。それは、「全能主から離れ、自立した人間として、自分の思い通りに

したい」という、ルシファーに(そそのか)されたエバの心を、そのまま持っているからです。という

ことは、今日の私たちは全能主の考えではなく、ルシファーの考えを持ち、ルシファーの影響下に

あるということです。聖書には、「主の杯と悪霊の杯とを、同時に飲むことはできません」(第Ⅰ

コリント10:21)
と書いてありますが、クリスチャンの多くは、
キリストを信じていると言い

ながら「自分の思い通りにしたい」というルシファーから来た考えを手放すことが
出来ずにいるの

です。
それこそが、私たちの罪そのものです。なのに、この事実が分かっていても、私たちは

自分が100%罪人だということを認め切れず、「主の杯を飲み、ルシファーの杯を(あわ)()んで

いる」という現実があります。こんなことがあってはいけません。私たちは、ルシファーの杯を

投げ捨てる
べきです。この決断をしない人は、進化論が正しいと言っているこの世の科学者と同じ

です。彼らは、
全知全能の知恵者がいなければ、秩序ある生物や宇宙の存在はあり得ないという

ことは、研究結果によって明らかになっているにも拘わらず(パスツールの実験による自然発生

説の否定、メンデルによる種
類に従った遺伝法則)、全能主の存在を認めようとしません。何故

なら、全知全能の知恵者を認めてしまうと、完璧に全能主に従わなければならなくなるからです。

彼らはそれが嫌なのです。ですから、
「全能主なんていない。全て偶然に出来た」と勝手に思い

込んでいるのです。それと同じように、私たちが
自分が100%罪人だと認めないのは、そんな

科学者たちと同じことをしているということです。
それは非常に愚かなことです。その愚かさが

分るなら、「私はどこを切っても罪人です」と正直に認めようでは
ありませんか。私たちは、自分の

思い通りにやったとしても、それが「幸いに繋がらなかった」という経験を
何度も味わって来ました。

ということは、「自分の思い通りにしたい」と考えて来たこと自体が罪なのです。そして、その

考えはどこから来たのかと言えば、ルシファーからです。
この事実は明らかなのですから、

はっきりと断ち切り、聖書の考えに、きっぱりと立ちましょう。そして、こんな者にも、イエス様

によるアオリストの贖いが与えられているのですから、この幸いな生き方に心を向けて、「全能主

に全てを委ね、全能主を信頼し、全能主に成し遂げて貰う生き方」
に、全面的にシフトを変えて

行くべきです
。もし私たちが、
「罪を全面的に消さなければ救われない」と言われたら、私たちには

どうにもなりません。しかし、そうでは
なく、全能主のお考えは「人間は、罪を消せないし、罪を

どうすることも出来ない。だから、イエスの命と引き替えに人間の罪の贖いをしたのだ。だから、

それを信じる者は救われる」と仰って下さったのです。
これは理屈ではなく事実です。だから、

私たちは、事実は事実ですから「どうにもならない者です。どうかよろしくお願います」と、

自分を完全に主に明け渡して従って行くべきです。その時に、初めて「主の杯
一本」になるの

です。
しかしながら、人はこの地上で生きている限り、ルシファーとの繋がりが消えてしまうことは

ありません
先祖伝来、アダムとエバから受け継いだ罪、魔物の心は、肉体の命を閉じる時まで

続きます。しかし、
だからと言って「悪霊の杯を飲んで良い」ということではありません。

罪人には多くの失敗も起こってきま
すが、その時は、その事実を正直に告白して、その罪を(いさぎよ)

認めて行きましょう。
そうすれば、イエス様のアオリストの贖いの故に赦して頂けるのです。

(結)
こういうわけで、聖書は決して一面の律法主義ではありません。故に、この被り物の件も、

律法では
なく、遜って受け止めて行くものです。男性は男性としての心構えを持って主に仕え、

女性は
女性としての慎みの心を持って仕えて行くのです。どうか、完全にギブアップして、主に

委ね、「何を
するにも、全能主の栄光のために、この身を献げ、主に成し遂げて頂く」という、

信仰生活を始め出しましょう。
(第Ⅰコリント10:31)


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