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2022年7月24日

いつも全力を注いで主のわざに励み、
その労苦が無駄にならないことを味わう信仰の生涯

第Ⅰコリントの手紙 15:50~58


(起) 第Ⅰコリント15章58節の御言葉から、「いつも全力を注いで主のわざに励み、その

労苦が
主にあって無駄にならないことを味わい」、信仰の生涯を全うすることを学んで行きたいと

思います。


(承)
さて、50節を見ますと、「生れながらの血肉は、全能主の国を継ぐことができません」とあり

ます。生まれ
ながらの血肉とは、今現在、私たちが持っているこの肉体のことで、ここには罪と

魔物が内住しています。
この罪と魔物から、いくら離れたいと思っても、主の再臨までは取り去る

ことはできません。ですから、この血肉のままでは全能主の国に入ることはできないのです。

ところが、51節を見ますと、「あなた方に奥義を告げましょう」とあります。その奥義とは、

「私たちは皆、眠ってしまうのではなく、
終りのラッパの響きと共に、
まばたきする瞬間に、

一瞬にして変えられる」
という素晴らしい幸いのことです。


【この奥義に関して、あえて、聖書から「終わりのラッパ」がいつ吹かれるのか見ていきましょう。

まず、マタイ
24章31節には、「人の子は、大きなラッパの音と共に、・・・四方からキリストの

選びの民を呼び集めます」とあり
第Ⅰテサロニケ4章16節では、「全能主のラッパの響き

よって、天から下って来られます」とあります。この
ラッパの響きは、患難時代の終わりに鳴ら

され、そして主が来られるとあります。それは、明らかに「荒らす憎むべき者」、また「滅びの子・

666」と言われる反キリストが現われてから、(あと)のことです。ですから、「患難時代の

終わりにラッパが吹き鳴らされて、キリストの再臨がある」と、マタイとテサロニケの書に記るし

ているの
です。そして、その時に空中携挙が起こり(マタイ24:31,第Ⅰテサロニケ4:17)

生き残っていたクリスチャンたちは、この時に挙げられるのです。ですから、患難時代の前には、空中

携挙はありません。
このことは聖書に
明確に記されています。患難時代の前の空中携挙の教理は、

初代教会の中にはなく、極最近に、サイラス・
スコフィールドのバイブルによって20世紀に広め

られたディスペンセーション主義によるものです。
もし、全てのクリスチャンが患難時代の前に空中携

挙されるならば、目を覚ましていなくても良いことになります。このディス
ペンセーションの教えは、

真正面から聖書の教えに逆らう教理です。そして、クリスチャンを眠らせるサタンの企みです。
(ちな)
みに、

スコフィールドはフリーメイソン・イルミナティーから資金提供を受けてバイブルを作製しました。

このイルミナティ-は悪魔礼拝者です。】


さて、私たちは必ず命を閉じるときが来ますが、それで永遠に眠ってしまうのではなく、終わりの

時に、全く
新しい身体として、朽ちない身体に変えられ、天に引き上げられて行くのです。

しかも、まばたきする瞬間に変えられるということですから、自分自身も自覚できないほど瞬間

的に新しい姿に変えられるということです。
そして、「不死を着る」とありますから、当然死ぬ

ことはありませんし、時間と共に年を取ることもありません。
天の御国では、私たちはイエス様の

兄弟として、心と心の触れ合う幸いな交わりの中に入れられるのです。
そのような世界が私たちには

約束されています。このことは、決して自分の力で実現できるものではありませんそれは、全能主が

キリストの贖いを完成されたので、信じた者たちをその救いの中に入れて下さるのです。
です

から、救いというものは、私たちが自分の力で全うするものではありません。ということは、

クリスチャンの
生き方は「こうすべき、ああすべき」という律法を自分に言い聞かせて生きて

行くのではなく、信じた者は、救いを成し遂げて下さる全能主を信じ、信頼して行く中で生きて

行くのです。何故なら、律法は、キリストに
よって廃棄されたからです。


(転)しかしながら、私たちは子供の頃から、「こうすべき、ああすべき、これをしてはいけ

ない、あれをしては
いけない」という教育を受けて来た為、無意識のうちに、その律法を自分の

中に持っています。良い子は、
子供の頃から律法に従う子であると教育され、「こうすべき、ああ

すべき、これをしてはいけない、あれをしては
いけない」と、いつも自分自身に言い聞かせて生きて

来たのです。ところが、56節にある通り、「律法は罪の
力」なのです。私たちは、「してはいけ

ない」と言われると、逆に反発し、やりたくなってしまいます。
即ち、律法は、元々持っている

罪を噴き出させ、罪が罪として存在しているという事実を指し示すことが目的なのです
それ

なのに、私たちは罪に打ち勝とうとして、反省しますが、また同じ事を繰り返すのです。ですから、

「律法は
罪の力です」とあるように、聖書は私たちの罪の心を(えぐ)って無力であることを伝えて

いるのです。それならば、イエス様を信じた時に、
「律法から解放されている」ということを

同時に聞いていたなら、どんなに幸いであったことでしょうか。それは、
イエス様の救いが、

アオリスト形の救い
だったのですから、今現在、私たちが子供の頃から染み付いた律法に
捕ら

われて失望していたとしても、関係ないのです。つまり、
現在の自分がどのような状況であろうが関係

なく
過去にイエス様が贖いをして下さったという事実の故に、私たちはもう律法に対して死んだ者と

され、律法から
解放されているのです。これが救いです。ならば、私たちの生き方は、律法から

解放された者として
これからは自分の努力で成し遂げて行こうとするのではなく、主に信頼し、主が

成し遂げて下さることを、どこまでも
信じて待って行くことです。それが、58節に書いてあり

ます。「堅く立って動かされず」とあるように、主に信頼
する心に堅く立ち、イエス様のアオリスト

の救いに留まるのです。
私たちの内からは、魔物が「お前は、それでもクリスチャンか」とか、「お前の

心の中はいつも罪で満ちているだろう」と、いろいろ言ってきます。確かに、
それはその通り

です。でも、イエス様の贖いはどこまでいっても変わりません。だから、私たちのような罪人でも


主のために心を使って従って行けるのです。主に信頼して行くことにおいて、「お前はダメ、お前は

良い」という
差別はありません。主に信頼して行くことは、主ご自身も喜ばれます
。私たちの人間

的な思いは、「頼って
ばかりいないで自分でやれ」と言われるのではないかと、恐れますが、私たちは

生まれながらに罪人です
から、自分で出来るわけがありませんし、自分でやろうと思うことが

正しいのではありません。私たちには、
イエス様のアオリストの救いを頂いたのですから、主が

全部成し遂げて下さるという「信仰の法則」(ロマ3:27)に従って行けば良いのです。その

中に歩み出した時、主は必ず助けて下さいます。それを一度味わえれば、全力を注いで行く生き

方が、ますます力強くなって行くでしょう。


(結)私たちの教会には、大きなビジョンが与えられていますが、それは、私たちがやろうと

思って出来ることではありません。しかし、全能主がやろうとしておられる事柄ですから、私たち

は主に信頼し、全力を尽くして
前に向かって行くのです。すると、主がそれを成し遂げて下さい

ます。これは二人三脚です。即ち、私たち
自身の主に信頼する心と、全能主の御心が合体して、

全能主の栄光が表されて行くのです。どうか、全力を
尽くして主に信頼し、それが無駄ではなかった

ということを味わって行く信仰の生涯を送ろうではありませんか。


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