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2022年6月26日
純粋な信仰、純粋な一方通行の愛

第Ⅰヨハネの手紙 1:5~2:6


(起) 第Ⅰヨハネ1章3節の「私たちとの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりのこと

です」
という
御言葉と、「互いに愛し合いなさい」という御言葉から、「どこまでも純粋な信仰

純粋な一方通行の愛の中を歩む
こと」を学びたいと思います。


(承)さて、まず1章3節を見ますと、「私たちが見たこと、聞いたことを、あなた方に告げ知ら

せるのは
あなた方も、私たちとの交わりを持つためです。私たちとの交わりとは、御父と御子

イエス・キリストとの
交わりのことですとあるように、私たちは、罪人のために死んで下さった

救い主イエス様を信じたことによって、イエス様を送って下さった全能主も信じました。その

ことは、私たちが、イエス様を通して、「父である全能主と御子イエス様との交わりを持つことが

出来るようになる」
ためでした。これは(すご)い恵みです。しかし、6節を見ますと、「私たちが


全能主と交わりを持っていると言いながら、もし闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽っている

のであって、真理を実践してはいません」
とあります。ここを読むと、私たちは自信を失って

しまうのです。何故なら、私たちは、今現在でも罪を犯しており、闇の中を歩んでいるような

現実があるからです
。それは、私たちがイエス様を信じたからといって、罪の肉が全部取り去ら

れて
しまった訳ではないからです。私たちは(いま)(なお)、自分の中に魔物を(かか)えていますので、

罪を犯す可能性は
充分にあります。しかし、そんな「罪を犯す者」に対しても、聖書は、「罪人の

執り成しをして下さる方が
いらっしゃる」(2:1~2)と(しる)しています。即ち、「もし、罪を

犯した者があれば、父の御許には、私たちの
ために執り成して下さる方、すなわち、義なるイエス・

キリストがおられます。このイエス・キリストこそが、私たちの罪のための贖いの供え物です」


あるからです。この御言葉を読むと、ほっとします。なぜなら、「どうにもならない私たちの罪に

対する解決が、今なお為されている」ということだからです。ですから、「私たちが、自分の罪を

度毎に認め、告白し続けるなら、全能主がそれらの罪を赦し、一つ一つの不義
から私たちをきよめ

て下さいます」
とあるのです(1:9)。「こんな凄い贖いは、全能主の特別なアガペーの愛から

出た、全能主の一方的な救いです。」
それを私たちは頂いたのです。このアガペーの愛とは、一方

通行の愛であり、双方向のギブ&テイクの愛ではありません。(注:ヨハネの手紙の「愛」は、

原語では、全てアガペーの愛です。)


(転)では、この事が分かったクリスチャンは、その後、どのような歩みをして行けばいいので

しょうか。
それは、「どこまでも純粋な信仰純粋な一方通行の愛の中を歩むことです。それは、

私たちも、純粋なアガペーの愛を持って、「互いに愛し合う」ということです。つまり、救い主である

イエス様に信頼し、全ての面において、全能主にお委ねして行く、
純粋な信仰純粋な一方通行の

愛の中を歩んで行く
ことです
。これは、イエス様のアオリストの救いに預かった者なら、本気で

愛を実践する、純な信仰の生き方
するということなのです。これこそが、本当に信じた者の

生き方だと思います
。何故なら、私たちは、生まれ
ながらに罪人であり、自分には一切頼れない罪人

その者でした。なのに、こんな私たちをもイエス様の一方的な恵みによって救って下さり、「これ

をすれば救ってあげる」という条件の下で信じたのではありま
せん。ただ、「罪人の自分には、

もうどうにもなりません」という、お手上げの状態で救われたのです。ならば、信じた後も、自分

自身に頼らず、全能主だけに信頼して生きて行く道こそが、真実な生き方です
。これが、「御父と

御子との交わりを持って生きる」
という生き方です。そして、この御父と御子との交わりの中で

生きることが「互いに愛し合う生き方」なのです。どういうことかと申しますと、この「互いに


愛し合う愛」とは、「アガペーの愛」であり、ギブ&テイクの愛ではありません。即ち、右の手で

したことを、
左の手に教えることは、ここで言う「愛」ではありません。それは損得抜きの純粋な

行為を意味します。
それを私たちは、全能主から頂いたのです。それならば、私たちもアガペーの

愛で、全能主を愛し、また互いに信じる心を持った兄弟たちを愛するのは、当然のことでしょう。

その純な生き方は、まず私
たちが、全能主に対して、「全てを委ね、全てを主に頼り、主に成し

遂げて貰う」純な信仰の心を持って、
「何をするにも、互いに人に対してではなく、全能主に対して

するように心からして行くこと」
なのです。この生き方をジョージ・ミュラーさんもしました。

そして、私たちの教会もこの生き方を目指してきました。どうか、この純な生き方を魔物の妨げに

よって奪われることなく、「信仰を引き換えに、世のものを愛する」
生き方から、「おさらば」しま

しょう。そして、これからも、益々この心を持って主に仕えていくのです。それは
、具体的には、絶対

主が「これをやりなさい」と言われたら、損得抜きで「分かりました」と言って、全能主に頼って

行く中で、
「どこまでも全能主に信頼し、一生懸命にして行くことです。これが、私たちにとって

の一方通行の愛であり、御父と御子との交わりを持つということ」
なのです。

(結)こういうわけで、こんな罪深い者に対して、何から何まで赦しがあり、「これをしなければ

ダメ」という書かれ方は、一切されていないのです。この一方通行の愛を、全能主は私たちに注いで

下さったのです。です
から、
私たちも一方通行の愛を表して行きましょう。それが、御父と御子

との交わりの中に入ることです。
どうか、この真理を心の中に覚えて、どこまでもアガペーの愛の

心を持って、純粋な信仰、純粋な一方通行の愛の心を持って、全能主のために働き、全能主の栄光

を表わして行こうではありませんか。



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