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2022年6月19日

愚かな自分ではなく、全能主に望みを置く生涯
~メルキゼデクの職務のような祭司~

ヘブル人への手紙7章、10:19~25


(起)ヘブル書7章17節の「あなたは、永遠に、メルキゼデクの職務のような祭司である」という

ことが、どういうことであるかを学び、「自分という愚かな者に頼るのではなく、全能主に望みを

置いて、へりくだりの心を持って、残りの生涯を全うすること」
を学びたいと思います。

(承)さて、7章にはメルキゼデクのことについて記されています。このメルキゼデクに関して

7章3節を
見ますと、「彼には、父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの

終りもありません」と
あります。即ち、彼はアダムとエバから出た人ではありませんから、人間で

はありません。メルキゼデクは、全能主の直属の大祭司であり、全能主と人との仲介役です。

ですから、メルキゼデクは、旧約時代の古い契約の
仲介者として立てられていた大祭司でした。

しかし、モーセが立てられてからは、モーセが全能主とイスラ
エルの民との仲介役となり、その

後も、大祭司はモーセの兄弟アロンの子孫が務めるという決まりの中で
、子々孫々と受け継がれて行き

ました。ところが、ダビデの預言の中には、次にまた別の「新しい契約の
仲介者」が出て来るとの

預言があり、その方は「メルキゼデクに等しい祭司としてのイエス様」でした。
イエス様はユダ族

ですから、律法に基づく大祭司ではありません。ですから、「新しい契約」の許では、「祭司職に

変更があれば、必然的に律法の変更があり、・・・しかも律法によらない別の祭司として立てられ

たとするなら、律法の変更はますます明白です(7:12、15)。」ですから、イエス様が大祭

司として
立てられたということは、「律法は廃止された」(10:9)ということなのです。その

事は、予め預言で定め
られていたことで、イエス様が「メルキゼデクの職務に等しい大祭司」

され、新しい契約の仲介者となら
れる為であったのです。即ち、イエス様は私たちの為に、御自身

の完全な生け贄を捧げられたことに
よって、永遠の贖いをされ(10:12~14)、それに

よって、私たちは「律法によらず、恵みによって聖められる」という、新しい契約の中に入れ

られることになったのです。このことは、イエス様以前の贖いは、年に一度、大祭司が至聖所に

入り、自分自身の罪と、民が知らずに犯した罪の赦しのために、動物の生け贄を持って行ったの

ですが、新しい契約では、イエス様が聖なるご自分の血をもって聖所の幕の内側に入り、永遠の

贖いをされました。この事の故に、主が十字架上で息を引き取られた時には、神殿の幕が真二つに

裂け
ました(マタイ27:51)。ですから、イエス様以後の私たちは、大胆に聖所に入って行く

ことが出来るのです(ヘブル
10:19)。すなわち、「イエス様は、私たちの先駆けとして、この

聖所に入り、メルキゼデクのように、永遠の
大祭司となられました」(6:20)。それ故に、私た

ちのような大祭司以外の者も至聖所の中に入って、
大胆に全能主に近づくことが出来るように

なったのです(6:20、10:19)。
しかも、ここで語られている聖所とは、聖なる都の

ことを指し示しています。
黙示録21章22節には、「都の中には聖所を見なかった。
全能主と

小羊とが、その聖所だからである」
とあるからです。すなわち、「聖なる都エルサレム」そのものが

聖所ということであり、そこに、私たちが大胆に入って行くことが出来るということなのです。これは

何と(すご)幸いでしょうか!


(転)
しかしながら、こんなにすごい約束事が与えられているにもかかわらず、同じヘブル書の

6章や
10章には、それを反故(ほご)にしてしまうクリスチャンがいるということが記されてい

ます。6章4~8節、10章
26~27節を見て行きますと、それは、「一旦光を受けて、天からの

賜物の味を知り、聖霊にあずかる者と
なり、・・・全能主の御子を踏みつけ、自分が聖とされた

契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を
(あなど)る者」が出て来るというのです。それは、

彼らの内にいる魔物がそうさせるのです。私たちが魔物に影響されると、不信仰になり、思い

上がって自分が主権者のようになり、全能主に対するへりくだりを
忘れて、いつ全能主を裏切るか

分からない、実に恐ろしい心が出て来るのです。
ですから、信じた時に、この魔物の心を取り

去って頂けたなら、それは、ありがたいことでしたが、全能主はそうはされませんでした
それは、

私たちの信じる心が本物かどうかを全能主が確認するためです。すなわち、先程お話しした
よう

に、全能主は聖なる都に入る幸いを用意しておられますので、そこに導こうとする者に対して、信じる


心が本物かどうかを確認されるのは当然のことです。なぜなら、クリスチャンは、口では信じます

と言い
ながら、自分の思い通りにならないと簡単に全能主を裏切るような者だからです。そんな

いい加減な信仰者を、全能主は聖なる都に入れることは出来ません。だから、全能主は私たちの

本気の信仰を確認するために、ご自分の子として訓練し、試されるのです。ですから、私たちは

遜って、たとえ
「魔物の惑わしがあろうが、どこまでも全能主の前に悔いし砕かれた心を持って、

キリストを信じ続けて
行く事が重要なのです。」なのに、私たちは律法的になって「これします、

あれします」と言って
思うように出来ないと、簡単に全能主に反旗を翻し、また、思うようになら

ないと「信じた意味が無い」と
言って反抗するのです。そんな傲慢な信仰者を、全能主が受け

入れて下さる(はず)がありません。私たちは、生まれながらに、罪人として魔物の心を抱えて

生まれ出て来ました。そんな者が、「あれしました、これしました」と()めて貰えるはずがあり

ません。むしろ、全能主はそんな私たちに律法を廃止し、恵みで救う計画を立てて下さったの

です。ならば、私たちは出来もしないのに、偉そうに傲慢な物言いをすることは、全能主が赦しま

せん。ところが、私たちは勘違いし、怒られると「これからは心を変えて、正しくやって行き

ます」と反省し、「これからは同じ罪は犯しません」と、表明したくなります。しかし、本当に

その反省通りにするのでしょうか?それはその時だけです。魔物を抱えていますから。むしろ、

また
同じ過ちを犯すような者でしかないのです。こんな人間は、全く信用できない罪人です。

ゆえに、反省や悔い改め位で、自分が正しく生きていけると思ったら、大間違いです。ここで、

私たちが出来る事は、全能主の前に完全に降参し、お手上げすることです。
ただし、私たちが

お手上げするという
ことは、「自分は全能主から信用されず、見捨てられて当然だ」というレッテ

ルを張られることです。
ところが、見捨てられたら大変だと思い、何とか受け入れて頂きたいと

思いつつ、自分に頼って立派な
表明をしたくなりますが、それが、「恵心庵」で経験したことでした。

しかし、私たちは自分を信頼出来ません
ので、出来る事と言えば、「私たちは全能主に完全降伏し、

全てを主に委ね、主に信頼して、主に成し
遂げて貰う道に切り替えて行くことです。」この事は、

私たちが信じた時に経験したように、罪人である
真実なへりくだりの心の生き方です。そこに立ち

戻ることです。それが、罪人のへりくだりであり、本当の意味での砕かれた悔いし心なのです。

そして、空っぽの器を差し出すのです。


(結)こういうわけで、イエス様が私たちの先駆けとして聖所に入って下さったおかげで、魔物を

抱えた
ダメ人間である私たちでも、全能主に信頼する心さえあるなら、大胆に全能主に近づくことが

出来るという
真理があるのです。どうか、自分という愚かな者に頼るのではなく、全能主に望みを

置いて信頼し、へりくだりの心を持って、残りの生涯を全うしようではありませんか。



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