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                                                                                                                              2022年6月5日


「自分の思い通りにしたい」という考えを砕き、
全能主を信じる信仰を貫く

ガラテヤ人への手紙4:21~31

(起) ガラテヤ書4章30節にある「女奴隷とその子とを追い出せ」という御言葉から、「自分

思い通りにしたい」という考えを砕いて追い出し、「どこまでも全能主を信じて行く信仰を貫いて

行くこと」
学びたいと思います。


(承)さて、ここには、ハガルから生まれたイシュマエルは「女奴隷の子」、サライから生まれた

イサクは「自由の女の子(約束の子)」と書かれてあります。どういうことかと申しますと、アブ

ラハムは、全能主から
「あなたの子孫は星の数ほど増え広がる」と約束されていましたが、妻の

サライは不妊の女で、子を生む
ことが出来ませんでした。そこで、アブラハムは仕方なくサライの

勧めによって、女奴隷ハガルから子を
得ました。その子が、イシュマエルです。そのイシュマ

エルがアブラハムの子として世継ぎになろうとしていたところ、全能主から声がかかり、「来年の

今頃、サラに子が生まれる」(創17:21)
と、約束されました。 そして、サラから生まれた

のがイサク(約束の子)です。このことを通して分かることは、「アブラハムは、自分に頼って、

人間的な方法でハガルから子を得ましたが、全能主はそれを許されなかった」ということ
です。

それは、4章30節に「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、決して自由の女の子と共に

相続をしてはならない」と書いてある通りです。すなわち、「律法と信仰は共存できない」という

ことです。
律法は、自分に頼り、自分の思い通りにやろうとします。ところが、信仰は、全能主の

約束に頼り、全能主が成し遂げて下さることを信じて待ちます。
そういう意味で、律法と信仰は

相反する世界なので、共存することは出来ないのです。


(転)これは、私たちにも当てはまります。私たちは、イエス様を信じた当初は「これからは全部絶対

主にお任せして頼って行けばいいのだ」という平安に満たされ、安堵(あんど)感を味わいました。ところが、

その平安は
、長くは続きませんでした。それは、「信じたのだから、信じた者らしく生きて行かな

ければならない」という律法がすぐに入ってきて、律法の(とりこ)になってしまったからです。

しかし、~3節を見ますと、
「父の定めた時期までは、後見人や管理人たちの下に置かれて

います。それと同じく、私たちも子どもであった時には、律法の下に置かれ、奴隷にされていました」


とあります。即ち、信じたばかりの頃はまだ子どもの
信仰で、その者が大人の信仰に成長する

までは、管理者である律法の下に置かれる必要があったから
です。私たちは、しばらくの間、

律法の下に置かれたことによって、「自分に頼って、一生懸命やらねば
ならない」という律法

主義に陥りました。しかし、「とても律法を守っていけない」という(みじ)めさを思い知らされ

ました。しかし、それも全能主のご計画であったことを考えると、私たちがそこを通ってきた

ことは決して無駄ではありませんでした。なぜなら、4章5節を見ますと、
「それは、律法の下に

ある者を贖い出し、それによって、私たちが
子の身分を取り戻すためです」とあります。即ち、

私たちも信じた時に全能主の子とされていたのですが、父の
定めた時期までは、律法の下に置かれ

ました。そして時が来て、イエス様が既に贖いによって律法から贖い
出して下さっていました

ので、子の身分を取り戻されたということです。ですから、私たちは、今はもう
律法の下にはない

筈です。しかしながら、未だに、私たちの心の中には、自分に頼り続ける部分があり、
律法に縛ら

れています。それは何故かというと「結局は自分の思い通りにしたい」という自我が強いからです

つまり、「全能主に信頼し、全能主に委ねる」となると、自分の思いを出してはいけないし、全能主が


やって下さるまで待たなければなりませんので、それが嫌なのです。
しかし、「自分が罪人だと

いうことを
理解して、もう自分では何も出来ない」ということが分かったのなら、自分の思い通りに

したいという部分は当然砕くべきです
。ところが、それを、たとえ粉々に砕いたとしても、その気持ち

が無くなるわけではありま
せん。その砕いた「我の破片」は、命閉じる時までは、しっかりと私たち

の内に留まっています。ですから、
それは一生涯出てきます。でも、粉々に砕けば砕くほど、

その気持ちから解放され、「自分の思いを
通すよりも、全能主の考えに従う方がいい。それが信仰

だ」と分かってくるのです。
この信仰の生き方は、自分に頼る律法の生き方とは正反対です。

故に、「律法と信仰は絶対に共存できない」のです。
だから、「自分に頼ろうとする心は砕いて

追い出し、どこまでも主に頼り、主が成し遂げて下さることを信じて待つ」
のです。私たちは、

この信仰の姿勢を養って行かなければなりません。


(結)こういうわけですから、「信じる心は捨てたくない。でも、自分の思い通りにもしたい」

という両方を
抱え込んで信じて行けると思ったら大間違いです。私たちは、どこまでも全能主に

頼って、全能主に
成し遂げてもらうのです。そう決めたら、「自分の思い通りにしたい」という

考えは追い出して、どこまでも全能主を信じて忍耐して行くのがクリスチャンです。信じた以上、

この忍耐の意地は通すのです。
どうか、
自分の思い通りにしたいという考えを砕いて追い出し、

どこまでも全能主を信じて行く信仰の姿勢を
貫いて行こうではありませんか。

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