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                                                                                                                              2022年5月29日


信じた者として、聖書に従い、
どこまでも全能主に信頼する

ローマ人への手紙10:1~12

(起) ロマ書10章の御言葉から、「信じた者として、聖書に従い、どこまでも全能主に信頼して

行くこと
」を学びたいと思います。

(承)さて、私たちがイエス・キリストを信じてから随分長い年月が経っていますが、今ここに

至って、
「信じた者として、信仰の歩みをどのようにして行けば良いのか」ということを、聖書を

通してはっきりと
教えられていますので、その歩みをロマ書を通して学んでいきたいと思います。

まず、一つ大切な
ことは、「信じた者は、こうすべき、ああすべき」という、「律法を守って

正しく生きて行く」のが、クリス
チャンの歩みではないということです。信じた当初は、ガラテヤ書に

「子供であったときには、律法の下に置かれ」(ガラ4:2)とあるように、多くのクリスチャンは律法

主義の中で、罪の奴隷としてクルシミ
チャンとして歩みます(ロマ7:13)。しかし、大人のクリ

スチャンになりますと、罪の法則(ロマ7:23)から、御霊の法則・信仰の法則(ロマ8:2,

ロマ3:28)へと理解が深まってきます。
そこで、律法についてロマ書10:2~3を見ま

すと、「律法を行っていこうとする熱心は、知識に基づくものではなく、
それは全能主の義を

無視し、自分の義を立てようとすること」であると記されています。また、10章
4節には「キリ

ストは、律法を終らせられた」とはっきり記されています。となると、律法を守ることに
よって

全能主の前に義とされるということはありませんので、残るのは「御霊の法則、即ち信仰による
法則」

に従うしかありません。10:6~7節を見ますと、信仰による義は「心の内で、『誰が天に上る

だろうか』と言ってはいけない。また、『誰が底知れぬ所に下るだろうか』と言ってはいけない」

とあり
ます。これはどういう意味かと申しますと、「人の行いを見て、『あの人は天国、この人は

地獄』と
判断してはいけない」ということです。即ち、信仰による義というのは、「これやりました、

あれやりました
という、行いの熱心さによって生きて行くのではなく、全能主を信じる信仰に

よって生きて行くこと
なのです。
それは、信じた時にそうであったように、信じた後の歩みも

「信じる信仰によって生きる」ということです。そのことが先週学んだ、「御霊の法則に従って

生きる」ということなのです。
御霊の法則とは、「自分の道を主に委ね、主に信頼し、主が成して

下さること」を信じて行くことです。
律法はイエス様が終わらせて下さったのですから、信じた者は、

この御霊の法則に切り替えて行かなければ
なりません。


(転)それなのに、この御霊の法則になかなか切り替わらないのは何故でしょうか。それは、

多くの
クリスチャンの迷いが、「自分のことは自分でしなければならない」とか、「自分の生活の

ことも、
100%全能主に頼って、任せ切っていいのか。何でもかんでも全能主に任せていい

のか?」という不安を抱えているからです。聖書には、「何を飲み、何を食べるか思い煩うのは

止めなさい。まず全能主の国と全能主の義を追い求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべ

て添えて与えられます」
とあります。しかし、「『そうすることが正しい』と分かっていても、

今はその気持ちになれません。
だから、『それでいい』と悟らせて下さい。その信仰を心の中に

入れてください」と、不信仰を(さら)出しているのです。しかし、それは、「自分は信じることが

出来ないので、信じる心を下さい」と願って
いるのと同じです。確かに、未信者の時はイエス様を

信じたいと思っても、心がついて行かない部分がありました。ですから、「信じる心を下さい」

と、祈って答えられました。しかし、信じた後は
違います。今度は信じさせてもらうのではなく、

自分は既に信じたのですから、信じた者として「御言葉の通り信じます」と歩んで行くのです。

すると、信じた中から新しいことがどんどん分かってきて、その恵みを味わって行くようになるの

です。
ところが、信じた後でも、「信じさせて下さい」と願うのは、単なる甘えです。そんな甘えは

通用しません。
私たちはもう信じる心を与えられたのですから、あとは信じた者として、どう生きて

行くかです
。全能主は人間のしもべではありませんので、私たちが、遜って従って行くのが当然の

ことです。なのに、自分の考えを全能主に押し付けて、「全能主が
助けて下さらなければ信じま

せん」というのは、大きな誤りです。このように、聖書を通して、信じた者の真理が明らかにされ

ているにも拘わらず、「自分はまだ理解できないので、その通りには出来ません」と言うのは、

単なる不信仰であり、結局は自分を主人にすることです。それは大間違いです。今すぐ私たちは

全能主の前に降参し、考え方を入れ替えて行くべきです。

(結)私たちは、全能主を信じ、イエス様を信じ、聖書を信じたのですから、全能主が言われる通り

イエス様が言われる通り、聖書に書いてある通りに、歩んで行くのです。たとえ、出来ないと思うことが

あったとしても、「罪に対して死に、律法から解放された」と聖書に書いてある以上、私たちは自分に


信頼して、自分の努力でやるのではありません。「わたしが成し遂げる」と言って下さる全能主に

信頼して行けばいいのです。
これが「信仰による義」であり、御霊の法則です。聖書に書いてある

ことは、信じた者たち全員に当てはまるのですから、私たちも信じた者として、この聖書に従い、


どこまでも全能主に信頼して行こうではありませんか。


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