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                                                                                                                              2022年5月22日


御霊の法則に従った、新しい生き方

ローマ人への手紙6:11他


(起) ロマ書6~8章を通して、「どこまでも主に信頼し、主が成し遂げて下さることを信じ、御霊の

法則に従って、新しい生き方
を始め出すこと」を学んで行きたいと思います。


(承) さて、ロマ書の内容を読んで行く時、常々痛感させられるのは、「私たちがどう考え、私たちがどう

理解できるか」
という観点から読んで行くものではなく、「聖書が(なん)と言っているか、全能主が

どう主張し、どう見ておられるか」という観点から、見て行くことが重要性であるということです。


それは、救いの理解に大きく影響するからです。というのは、
イエス・キリストの十字架の死は、

今から約二千年前に起こった事柄
です。ですから、私たちはそこに立ち会っていませんし、実際には

見ていません。ということは、「イエス・キリストが私たちの為に死んで、罪の償いをして下さっ

た」という、過去に起った出来事が、私たちに本当に適用される事なのかどうか、確認しづらい面が

あります。例えば、キリストを信じた者は
「キリストと共に死に、キリストと共に甦らされた。

それは、私たちが新しい歩みをするためです」
と記されています。しかし、私たちは実際には死んで

いませんし、新しい人間に生まれ変わった訳でもありません。しかしながら、聖書は、私たちがキリ

ストを信じたときに、そのことがクリスチャンの内に起ったことである
ことをはっきりと主張してい

ます。それでも、現在の自分が、罪から解放され、罪の奴隷ではなくなったことも体験していませんし、

私たちは信じても(なお)、罪を抱え込んでいる罪人であることは現実です。
それなのに、全能主の前に

自分が
救われていると言える根拠はどこにあるのでしょうか?実は、イエス・キリストの贖いが、

アオリスト形で記されていることが根拠なのです。このアオリスト形という動詞
は、「過去形です

が、現在の状態に関係なく、過去に起った事実
として表わす」
ギリシャ語独特の文法表現です。即ち、

二千年前の過去に、キリストが人間の罪の贖いをして下さった
のですが、それが今日の我々にも適用

されていると、全能主は私たちに伝えているのです。すなわち、キリストの
時代の人々も、キリス

トが死んでから信じるようにされたのですから、その事は、私たちと同じく、過去に為された
キリス

トの償いの死
を信じたのです。そして、当時の人々も、私たちと同じように、信じてからもなおも罪を

抱え込んで
いました。それが、ロマ書7章23~24節に書かれています。
しかし、アオリスト形の

救いは、「現在の状態の如何に
関わらず、過去に起った事実として記しています」ので、彼らも、キリ

ストを信じたときに「キリストと共に死に、キリストと
共に甦った」者として、全能主から見られて

いたのです
ということは、「私たち自身がどう考え、どう理解できるのか」ということが大事では

なく、
「聖書がなんと言っているか、全能主がどう主張し、全能主がどう見ておられるか」
という

ことが重要なのです。それは、今日お読みした
6章11節でも言えることです。「あなた方自身も、一方

では罪に対して
死んだように、他方では全能主に対して、主イエス・キリストにあって生きている者

であると、認め続けなさい」
とあります。それはロマ書の内容自体が、アオリスト形で記されている

からです。このアオリスト形の見方で全能主が語って
おられる以上、これは信じるべき事柄です

私たちは、実際に今そう思えなくても、自分の見方で考えてはいけません。このように聖書の見方で

見るならば、
「私たちはイエス・キリストにあって、新しい歩みをして行く者」
とされた真理が

見えてくるのです。これがロマ書に記されている奥義です。


(転)それでは、「新しい歩みをしていく者」として、その歩みは、どんな歩みをすることでしょう

か?この新しい歩みとは、自分に頼らない生き方をすることです。罪深い古い自分は、死んだ者

として見切り、ひたすら
「あなたの道をヤハウェに委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」

(詩篇37:5)
と言われている「全能主を信頼」し、「全能主が成して下さること」を信じていく

信仰の生き方をすることです。それは、
「全能主が成して下さる」
と言って下さる以上、自分の力に

頼ることではないのです。罪に苦しむとは、「自分のしたいと思う善を行わないで、したくない悪を

行って
いる」(7:19)という生き方です。それは、私たちが
罪の法則の中にある(7:23、

25)からです。
罪の法則とは、
私たちの内に魔物が内住しているという現実を指し示しています。

魔物は、「いかにも自分が正しい人間であるかのように、人前で見せかけるように」仕向けます


これは律法的な生き方で、魔物は自分に頼らせます。
私たちがもし
自分に頼り始めて、「こうす

べき、ああすべき」という思いが入ってきたら、その瞬間にイエス・キリストの十字架の贖いは、

どこかに吹っ飛んでしまい、自分に対して苦しみつつ生きて行くことになります。それならば、


私たちは
律法的な生き方を、完全にお手上げし、おさらばして、御霊の法則に従って生きる方向に変えて

行けば良いのです
御霊の法則は、全能主にどこまでも信頼し、全能主が成して下さることを信じて

行きます。
これが、新しい生き方をしていく答えです。この「命の御霊の法則」(8:1)は、

イエス・キリストを信じる者に与えられた
新しい生き方です。


(結)
それなら、私たちは全能主に信頼する勇気を持って、御霊の法則に基づく新しい生き方を始め出す

べきです
罪の法則は、魔物の声に翻弄(ほんろう)されるだけです。しかし御霊の法則は、全能主に信頼

していく信仰の生き方です。全能主は、イエス・キリストを信じた私たちに対して、「自分の力で

成し遂げなさい」とは言われていません。むしろ、
「わたしが成し遂げるから、わたしに信頼しな

さい」
と言って下さるのです。この御霊の法則は単純です。ただ信じて行くだけですから
だから、

私たちは、自分の行ないに頼る事は、もうお手上げしましょう。そして、自分の肉は見切
って、この

新しい生き方を始めるのです。ここへ信仰を働かせて、勇気を持って切り替えて行くのです。これは、

クリス
チャンの信じる意志に掛かっています。ロマ書の中には、律法的な内容もたくさん出てき

ますが、それは私たち
自身の力に託されているのではなく、全て全能主が成して下さるのです。

だから、私たちはどこまでも主に信頼し、主が結果を出して下さることを信じて(おこな)っていけば

良いのです。
それが、御霊の法則に基づく新しい生き方です。どうか、クリスチャンなら、キリスト

にある者として、この生き方を始め出しましょう。

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