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                                                                                                                              2022年5月15日


罪の肉の心を砕き、砕かれた悔いし心を
自分の心とすること』

ローマ人への手紙2:1~16

(起) ロマ書2章3節より「人々を裁きながら、自らも同じ事を行っている者よ。あなたは、全能主

の裁きを逃れられると思っているのですか」
「あなたは、全能主に言い逆らうとは、いったい何者

ですか(ロマ9:20)」
とある御言葉より、「私たちは、生まれながらに罪人であるという事実

(ロマ5:16)と、全能主に言い逆らうことは出来ない
者であること」を自覚し、「罪の肉の心を

砕き、砕かれた悔いし心を自分の心にすること」
を学んで行きたいと思います


(承)さて、2章1節を見ますと、「すべて人を裁く人よ。あなたは他人を裁くことによって、自分

自身を罪に定めて
います。というのは、裁くあなたも、同じことを行っているからです」とある

通り、私たちは、他人と同じ罪を持って
いるにも(かか)わらず、自分は罪のない正しい人間のように、

他人を罪に定めようとします。そういう人は、全能主の裁き
から逃れることはできません(2:3)。

なぜなら、人を裁く人は、自分の罪を棚上げにして、自分の言い分が正しいと
思っているからです。

そういう人は、全能主から「人を裁く汝は何者か?汝も同じ事を行えり」(ヤコブ4:12)と言われ


自分の罪に気づかされて、お手上げするしかありません。また、全能主に対しても言い逆らう人は、絶対

主を裁いて
いるのです。そんな人は、「全能主が頑なにしようと思う者を、頑なにされるのです」

(9:18)という、全能主の怒りが
啓示されていることに気づいていません。全能主の主権に逆らっ

ては、ただでは済みません。「あらゆる人を偽り者と
しても、全能主は真実な方とすべきです」(3:

4)。
なぜなら、全能主は、私たちの命を創造された御方だからです。その御方に向かって「形造ら

れた者が、形造った方に対して、何を以て文句を言えるのでしょうか」(9:20)。それでも絶対

主が「滅ぼされるべき怒りの器を、大いなる寛容を以て忍耐して下さった」(9:22)
とすれば、

どうでしょう。
私たちはただ遜るだけです。私たちは自分を救って下さった御方に向かって、裁くの

ですか?全能主は、その
傲慢な罪を間違いなく裁かれます(2:16)。しかし、そのどうにもならない

罪のために、イエス様のアオリストの救いが
あります。それを信じた者たちは、信じた時に、自分の

肉は、罪の肉に過ぎないことを認めた筈ではなかったの
ですか?それなのに、まだ、自分の肉を

見切らず、自分の肉に頼って他人を裁くのでしょうか?こんな私たちは、正直に自分の罪と面と

向かい、自分の罪は赦されない罪であったことに気づくべきです。そこでもし、「自分の罪が

分かり、その通りです」と示されたならば、もう他人を、どうのこうのと裁く事は出来ない者、否、

裁こうとは思わない者になる(はず)ではないですか?何故なら、「自分も同じような罪を持っていた

者」であり、また、「自分の罪が赦された」という恵みを知った者なら、「ただ遜るのみだ」と、

痛感する(はず)だからです。
これが、罪を悔いて救いを信じた者の姿です。


(転)では、信じていながら人を裁く人は、一体どういう人なのでしょうかそういう人は、自分を

義とし、「自分は罪を犯していない」と勝手に思っているか、或いは、「自分は弱い人間だ」と言い訳

ばかりして、罪を悔いて謝らずに逃げて
きた人です。だから、簡単に人を裁けるのです。しかし、

それは間違っています。私たちは、信じたからといって
善人になったわけではありません。今現在も

悪そのものを持っており、魔物の心が潜んでいます。これはどうしようも
ない事実です
。しかも、どう

しようもない自分の肉を消し去ったり、取り除いたりは出来ません。ならば、その肉は
信じた後

でも、どうにもなりません。ならば、自分の罪の肉に対してお手上げし、自分には頼れない者だと

痛感し、「もう見切って行くしかしょうがない」と、心の底から思うはずです。すると、その(あと)

には、「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」と言う声が聞こえ、絶対

主に涙します。すると、全能主から「ああ、それでいい。もう罪深い自分には頼らず、わたしに信頼

してきなさい。わたしが成し遂げるから」と言われて、安心するのです。この救いの道に方向転換

するのが、救われたクリスチャンの生き方です。そんな私たちを全能主は、「キリストの贖いの

故に、お前の罪は赦す」と言われ、「ただ自分の我を砕いて従ってきなさい」と言って下さるの

です。もち
ろん、度を越せば全能主も叱りますし、戒めも与えます。時には痛い経験もさせます。

でも、それはその者を裁いているからではなく、何とか分からせようとして、そのように取り扱われるの

です。「何を分からせようとされるのか」と言い
ますと、「お前が罪人である事実は変わらない。

だから生涯、自分の罪を認め、悔いし砕かれた心を持って来れば
それでいい」と言って下さるのです。

そして、罪人がそのことを知ると、「本当にすみませんでした」と心から悔いることしか出来ないの

です。全てのことにおいて、いつも「自分が間違っていました」と言うことが、私たち罪人の取るべき

姿
です。幾ら私たちが、正しいことをしたとしても、罪人がしたことです。ですから、私たちに必要

なものは、「罪人の
我が砕かれた悔いし心」です。
罪人である自分を常時認め、「自分の我」とか、「自

分を守りたい」という意識を砕いた
者、即ち、「自分が間違っていました」と認めた者に対しては、

全能主はそれ以上責められません。全能主は、
「砕かれた悔いし心」を決して軽んじられない御方

だからです。ですから、罪を認めることが、私たちにとって救いなのです。だから、そのことが

分かったら、もう罪深い自分は見切りましょう。
私たちは、自分自身の決断とか努力で
正しい人間に

なりたいと思ってもなれないのです。ならば、全能主の前に、「私のような者を憐れんで下さりありがと

うございます。これからは、ただ全能主に自分の道を委ね、全能主を信頼し、全能主が求めておられる

方向へ自分の
心を向けて行きます」と心を替えていくのです。その砕かれた心を持つことを、絶対

主は願っておられるのです


(結)私たちが30年以上ずっと学んできたことは、自分が、罪人であるという事実を認めることだけで

した。
私たちは
、どうにもならない罪人なのですから、人を裁くことなどできません。だから、他人

の清濁の清だけを飲もうとするのは
間違っています。私たちは清と濁を()()けて行ける

ような人間ではありません。
だから、全能主をどうのこうのと判断する能力もありませんので、

ただへりくだって、清濁併せ呑むのです。どうか、全能主の前にへりくだり、「人が
悪いのでは

なく、私が罪人です」ということを、正直に認めて行きましょう。
しかし、それでもイエス様の救いは

変わりま
せん。なぜなら、イエス様の救いはアオリスト形で、私たちの現在の状況如何に関わらず、

イエス様が過去に罪の代価を払って下さったが故に、現在の罪人の私たちでも、全能主は受け入れ

続けて下さるからです。この恵みを感謝し、地上にいる間に、砕かれた悔いし心を自分の心にして

行きましょう。

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