教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


                                                                                                                              2022年3月27日


全能主の前に「初穂」として選ばれた者たち

ヨハネの黙示録14:1~5

(起) 黙示録14章1~5節の御言葉から、「私たちも全能主の前に『初穂』だということを感謝し、

全能主の
集大成のために使って貰えるように」、一途に従って行くことを学んで行きたいと思います。


(承)
さて、天地創造以来、地球上にはたくさんの人が生まれ、また死んで行った歴史があります。

そして、これから
後も生まれて死んで行く人たちがたくさんいます。この人類の全歴史の中で存在した

全ての人間の内、イエス様の
贖いによって「命の書に名が記された者」は、全能主の御国に入れて頂くこと

が出来ます。更に、今日、お読みした14章4節には、命の書に名が記されただけでなく、御国に入れら

れた者たちの中で、特別に「初穂」として選ばれた
者たちがいることが記されています。そこでまず、

この「初穂」の人々の特権について考えてみたいと思います。
一つの例として、「日本の国では、お米

を食べますが、お米には新米と古米とがあります。両方とも同じお米ですし、
刈り取る時期も同じ

です。ただ、最初に食べるか、後で食べるかによって、美味しさが違ってきます。刈り取ってすぐ

に脱穀して白米にしたのが新米で、要するに出来たての、質の良い美味しいお米ということです。

古米は、
刈り取ってから時間が経っているので、水分が蒸発し、旨味が減少してしまいます。同じお米で

も、新米と古米では
そういう違いがあります。」それと同じように、この地から贖われた人間の中でも、

「初穂の者」と「初穂でない者」では
、全能主にとって相違があります。では、「初穂」とは一体どう

いう人々のことでしょうか
。先程、「天地万物が創られて
から、この世が終わるまでの間に地球上に

存在した全ての人間の内、「命の書」に名が記された者は、全能主の
御国に入れられ、そうでない者は、

ゲヘナに落とされるとお話ししましたが、その区別は、いつ、どこで()されるのかと言いますと、世の

終わりの「白き御座の審判」の時です。この「白き御座の審判」では、天地創造以来、死んでいた


全ての者(黙20:12)が、死の床のハデス(よみ)から(よみがえ)り(黄泉(よみ)(がえ)り)、全人類が数々の書物に

従って裁かれ、天の御国に
挙げられる者と、ゲヘナ(地獄である、硫黄の燃えている火の池)に落とさ

れる者に分けられます。即ち、全人類は死んだ後に、この審判を受けるために、皆甦り、全能主の前

に立つのです。しかし、死んで命を閉じた聖徒の中で、「白き御座の審判」を通らない「初穂」の人々

がいるのです。彼らは「白き御座の審判」の以前に目覚めさせられ、
起きて主の働きに用いられて

いる人々です。その人々が14章4節の「初穂」と言われる人々です。彼らは、患難
時代の殉教者で

はありません。彼らは患難時代が始まる以前に、既に眠りから()まされており、小羊の行く所へ

は、
どこへでもついて行き、世の終わりの集大成のために働いていた人々です。
では、私たちはどうでしょ

うか。私たちは
「初穂」として、主の働きに用いられる者となるのでしょうか?私たちは、まだ死んで

パラダイスに入っていませんので
、「初穂」とは言われないはずです。しかし、私たちの教会は、「初穂」

とされた人々のEDM&RUMMの働きをさせて頂いた教会です。ですから、主の「初穂」として迎えられる

可能性はあります。なぜなら、初穂の人々は、世の終わりの
集大成の為に、天で用いられていますが、

同じように、私たちもこの地上で、世の終わりの集大成の為に用いられて
いるからです。ということは、

彼らと私たちは一体です。また、もし私たちが患難時代を通って命を閉じたとしても、一旦は眠りま

すが、その後()ぐに、イエス様が地上に来られますので、その時は目覚めさせられて、イエス様と共に

天から下って、地の裁きの働きをすることになります。ですから、その場合、私たちも「白き御座の

審判」を通らずに、それ以前に予め甦らされ、初穂として働きをさせてもらう者です。



(転)では、全能主の「初穂」として選ばれ、世の終わりの集大成の働きのために、地上で用いられる

聖徒とは、どういう信仰に立った者たちでしょうか。
それは正に、全能主の信任を頂いて、「主に

信頼せよ、主が成し遂げて
下さる」という、信仰の道を一途に歩んでいるクリスチャンたちでしょう。

ところが、一般的には、ただ教会の交わりに加わっているだけで、「初穂」となる信仰に至ってい

ない人々が多いのです。信仰とはどこまでも、全能主を本気で
信じ、ジョージ・ミュラーのように従い

通して、全能主の存在を信じ切って、全能主が生きていることを証する人々です
それは、個々の信仰の

在り方に懸っています。
ですから、全能主を実際的に信頼して行く生き方をした人が、「初穂
となるのです。

その為には、まず自分の罪深さを知り、自分を見切って、「砕かれた、悔いし心」を持ち、自分自身を徹底的

に否定し、自分の十字架を負って、主に従う道に歩み出すことです。ところが、自分の命を自分のものとし

、いつも自分を守ろうとする思いに囚われ、自分を振り払えないクリスチャンがいます。又、主に

従いたいと思っても、
自我が無くならないので、分かっていても、「主の十字架を負うことができない」

と悩んでいる者もいます。しかし、この
考えを持っていることが間違っています。なぜなら、自我を無く

そうとすればするほど、無くすことの出来ない恐れに囚われるからです。
自分に死のう(十字架を負う)

と思っても、死ねないのです。むしろ、自分を守ろうとする思いが強くなり、ただ失望して自分から

離れなくなってしまうのです。それは、どこまでも、自分の側で考えて、やろうとする
からできない

のです。
そうではなく、全能主の前で考えて下さい。そうすれば、自分はお手上げだと分かります。

もし、自分の罪を自分の頭だけで悔いていくなら、どこまでも、自分の都合の良いように考えて、

弁解をし続けます。しかし、全能主の前に立って自分の罪を正直に見れば、全てがお手上げで、

ごちゃごちゃ考えていても逃げ道はありませんし、言い訳も通用しません。
すると、全能主に心から

お手上げするしかないのです。これが、自分から離
れる(こつ)です。「罪人は何をやったとしても

罪人です。自分では何も出来ません」と自分を見切るしかないのです。
この自分を見切った人は、

もう自分には頼れませんし、人にも頼れません。なぜなら、人間は皆罪人ですから。もし、自分に

頼れば、それは、自分を偶像にして、偶像礼拝の罪を犯し続けるだけです。となると、頼ることが

出来るのは、全能主しかありません。全能主は、「わたしに信頼しなさい。わたしが成し遂げるから」

と言って下さっている以上、私たちはその世界で、一途に生きて行けば良いのです。ここで、自分

(こだわ)りから抜け出すことが出来ます。
しかし、全能主に頼って一途に歩むと決めても、私たちは

命閉じる時まで「救われた罪人」ですから、「自分には、初穂としてがんばります」と言える自信は

ありません。むしろ、いつ転ぶか分からない魔物の心を持っているのが現実です。ですから、自分の

内側では、いつもおどおどしているのが、真実な自分の姿です。しかし、だからこそ、主に頼って

行く道しかないのです。
全能主は、「その弱さを持っているなら、わたしに全面的に信頼して従って

きなさい」と言われます。
そして、「弱いのが現実なのだから、遜って、世の終わりの集大成の働き

の一員として従ってきなさい」とまで
言って下さるのです。ですから、全能主の目線で考えた時

私たちは罪人という事実しかありませんので、その
事実を認めた上で従って行くなら、全能主も安心して

私たちを信頼して下さるでしょう。
ですから、私たちがこの心を持って命を閉じる迄従い通すなら、全能主

の「初穂」として挙げて貰うことが出来るでしょう。また、この地上で用いて
頂けるに違いありません。



(結)
「初穂」とは、十二弟子のように、最初にイエス様の弟子となり、救われた者たちのことだと

思っていたのですが
そうではなく、「白き御座の審判」の前に目覚めさせられて、小羊の行くところなら、

どこへでも付いていきますと言って
、世の終わりの集大成の働きに用いられて行く者であったのです。

ならば、それが分かったら、私たちも
全能主の前に「初穂」だということを信じ、全能主の集大成の

ために使って貰う者となろうではありませんか。

 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室