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                                                                                                                              2022年3月20日

『全能主の前にお手上げする』

ヨハネの黙示録3:15~19


(起) 「自分を見切って、全能主の前にお手上げし、『主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる』という、

熱い信仰の
在り方」を学んで行きたいと思います。



(承)さて、私たちの通読の箇所が、今週から黙示録に入りましたので、まず2章と3章に書か

れてある七つの教会に
宛てられたメッセージから学んで行きたいと思います。七つの教会宛の手紙には、

「それぞれの教会の御使いに、こう書き
送りなさい」とありますので、これには、御使いから「霊的な

心で、黙示された内容を学びなさい」ということが暗示されて
います。そこで今、この手紙の内容を

読み解くとき、人間の勝手な曲解によって、「キリスト教会の歴史の時代区分であると解釈される

こともありますが、ここには、そのような言及が一つもなされていません。故に、書かれてある内容

をそのまま
学び、単純に私たちの信仰への教訓として学んで行きたいと思います。そこで、まず今日

は、ラオデキヤの教会に宛て
られた箇所から、私たちの学びにしたいと思います。3章16節を見て

行きますと、「あなたは熱くもなく、冷たくもない。
あなたはなまぬるいので、わたしの口から吐き

出そう」
とあります。これは、全能主が「なまぬるい信仰」を嫌っておられるということですから

私たちは、「はっきりとした熱い信仰」を持って行かなくてはなりません。即ち、「主に信頼せよ、主が

成し遂げて下さる」
という御言葉に立ち、「これしかない」という確信をはっきりと持って、信じて

行くことです。
すると、「なまぬるい信仰
から、熱い心で信じていく信仰」に変えられていきます。

ところが、先週も学んだように、「主にも頼りつつ、自分にも頼って行く」という、二心(ふたごころ)の信仰では、

中途半端で「なまぬるい信仰」になってしまいます
。ですから、二心の内の「自分にも頼って行く」という

面が取り去られて行けば、
「主に信頼して行く」という、一面だけが残り、熱い心で信じて行く事が出来る

でしょう



(転)ところが、もし、「自分自身に頼る」という習慣が取り去られずにいたら、信仰はどっち付かずの

「生ぬるい信仰」になってしまいます。それは、ある時は「自分に頼り」、ある時は「主に頼る」という自分

勝手な信仰となり、ただ自分の願望の実現の為に、キリストを利用するような信じ方になってしまうから

です
。しかし、「熱い信仰」は、確信に満ちた主への
信頼から生まれますので、聖書の中に「主に信頼せ

よ、主が成し遂げて下さる」
と、はっきり書いてある以上、この信仰の歩みをしていけば、迷うこと

はありません。ところが、聖書には自分の行ないに頼るような書き方がされている箇所が
多々
あり

ます
だから、ちょっと間違えると、自分に頼り、自分の行いによって全能主の栄光を表して行く事が、

熱い信仰心だと勘違いしてしまいます。
しかし、イエス様を信じた時を思い起こすなら、その時は

「自分に頼ることの出来ない罪人だ」と、
思い知らされて信じたのではないでしょうか。それなら、

信じた後も同じです。クリスチャンは、自分の努力で頑張って
救われた訳ではありませんので、信じ

たからと言って罪人の自分が、突然善人に変わった訳ではないのです。
もし、変わって
いるとしたら、

私たちは、「罪人の自分に頼らず、キリストにあって生きるようになった」という一面です。
ですから、

聖書の中には、自分の行ないに頼るような書き方がされている箇所があったとしても、それは、

「キリストから離れて努力していくことではなく、キリストに在って努力して行くこと」
なのです。

罪人が「罪の赦し」を頂いたという事は凄いことですが、その
救いは「アオリスト形」ですから、「罪赦

された者が突然善人になることではない」
ということを知って下さい。私たちの救いは、キリストの
再臨

によって御霊の身体を貰うまでは、どこまでも「救われた罪人」であって、救われた御霊の身体を貰う

のは、身体の
贖われる再臨の時を待たなければなりません。ですから、「信じたら突然、弱い性格が

どこかに消えてしまい、強い人間となり、
なんでもできる自分に成った」と勘違いしてはなりません。

罪人の事実は死ぬまで変わらないのです。御言葉には「律法によって義と認められようとしているあなた

方は、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」(ガラ5:4)
とありますから、私たちは

信じた後も、律法の行ないで救われるのではありません。ということは、弱い自分でも「イエス様を信じた

のだから
、聖書に書いてある通りの生き方を、自分がして行かなければならない」という、律法的に

考える必要は無いのです。この事実を理解していない人は、罪人が「聖書に書いてある通りの正しい

生き方を追求して行くべきだ」と勘違いし、無理
してでも、そうするのが正しいと思わされ、如何にも

罪人でないかのように妄想し、自分に頼り、良い人間に成ろうとするのです。そして、クルシミチャンと

なって、ただ苦しむのです。この流れは子供の頃から、この世の教育の中に在り、「他人に頼らず、

自分で一生懸命やりなさい。自分の努力次第だよ」
と、教えられてきましたので、その感覚が抜け

きらず、信じた後でも引きずって「ダメな人間でも、キリストの救いを頂いた者として、一生懸命

努力して行くことがクリスチャンの生き方なのだ」という方向に行ってしまうのです。しかし、それは

大きな間違いです。自分で努力して、何とか出来るなら、イエス
様の贖いは必要ありません。私たちは、

自分で自分をどうすることも出来ない罪人です。だからこそ、イエス様の救いを願い
そして信じたのです。

しかも、その救いはアオリスト形ですから、「弱い人間、ダメな人間、どうしようもない罪人」という図式

、信じる前も信じてからも、決して変わりません。だから、私たちは全能主の前に、完全にお手上げ

するべきです
なぜなら、全能主の前に完全にお手上げした人は、自分を見切って、自分のために

生きようとしないからです。そして、キリストに
本気で頼り、キリストのために生きようと始め出す

からです。
だから、「私たちは、完全に自分自身を見切って行くべきです。ですから「自分にも頼り、

キリストにも
頼って行こう」とする、半分半分の頼り方をする人は、自分の為に生きようとしている

人の特徴です。そうではなく、自分を見切って、主を見上げる人は、「キリストに本気で頼って、

本気で聖書の通りに生きて行こう」と思うようになるのです。こうして、全能主から
「生ぬるい信者」

ではなく、「熱い信者だ」と言われるようになるべきです
。それは、全能主に完全に、お手上げした者は、

キリストに頼って行こうと、本気で思うからです。だから、自分を見切ることは、本当の信仰の

スタートになるのです。すると
全能主は、そのように遜った者、即ち、本気で「悔いし砕かれた心を

持った者を、わたしは(かろ)しめない」と言って、「わたしを信頼してやって行けばいいから」と言って、

手を差し伸べて下さいます。ここに、私たちの本当の救いがあるのです。です
から、むしろ見切った

先に初めて「主に信頼し、主が成し遂げて下さる」という生き方が見えてくるからです。これが、「熱い

信仰」の始まりとなるのです。
だから、「お手上げしてしまうと、聖書を信じていくことを放棄する

ことになってしまう」という
強迫観念に騙されてはいけません。
自分を見切っていないと、いつまでも

「自分でやらなければならない」という強迫
観念に縛られ、出来ない自分に苦しみ続けて行くことに

なります。
すると、逆に一生懸命さがなくなり、なまぬるい信仰になって行くのです。



(結)
ですから、どうか全能主の前にお手上げし、自分を見切って、強迫観念から離れましょう。そして、

私たちは、「自分が
正しい人間なのか、正しくない人間なのか」、「出来る人間なのか、出来ない人間

なのか」を、全能主の目線で考えてください。そうすれば、罪人は完全にお手上げし、降参するしか

ありません
そんな罪人の私たちには、「ただ主に信頼して、主に成し遂げて貰う」道しか残されて

いません。
ですから、どこまでも自分が背負ってするのではなく、全能主に全面的に頼って信頼し、

「主よ!成し遂げて下さい」と熱い心で、「主に全面的に頼って成すべき事をやらせて頂きます」

という
気持ちで行けば良いのです。どうか、この正しい一本道を歩み出そうではありませんか。

 

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