2022年11月27日
『キリストにより廃棄された戒めの律法と、 信仰の原点である悔いし砕かれた心』
使徒の働き 21:17~25、エペソ2:15
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(起)エペソ2章15節の「キリストは、ご自分の肉によって敵意といわれる、数々の規定から成り
たっている戒めの律法を廃棄したのです。」という御言葉から、「悔いし砕かれた心」に入るために
妨げになっているものは、「律法主義的な自意識の強さであり、それが自分の心を縛っている」ことに
気づき、信仰の原点に戻って行きたいと思います。
(承)さて、「キリストは・・・戒めの律法を廃止された」という御言葉に示されていることは、
「クリスチャンは、キリストによって律法から解放されているので、他人に対して律法を主張しては
ならず、また自分自身に対しても律法を課してはならない」ということです。つまり、「律法を根拠
にして、他人を裁いたり、人に逆らったり、自分の正しさに留まってはならない」という事です。
なぜならば、人は100%罪人だからです。罪人が、自分の義に立てば、せっかく信じた時に味わった
「砕かれた心」が、どこかに飛んで行ってしまい、再びクルシミチャンになってしまいます。そのこと
を、パウロさんはロマ書7章9~10節で後悔して、語っています。「私はかつて、律法から離れて
生きていましたが、戒めが来た時に、罪が息を吹き返し、私は死にました。そこで、命に導くはずの
戒めが、かえって私を死に導いていくものであることが分かりました。」と。この言葉は、パウロさんが
「再び肉により頼んだことによって、罪が息を吹き返したという後悔」を表わした言葉です。こんな
後悔に陥ってしまったのは、使徒行伝21章20節以降から出てくる経験に原因があります。彼が
エルサレム教会に到着すると、エルサレムの使徒たちが彼に忠告して、「ユダヤ人たちは、『あなたが、
モーセに背くことを教えている』と聞かされているので、今、ここに誓願を立てている者たちがいる
から、彼らと共に身を清め、彼らの頭を剃る費用をも出してやりなさい。そして、律法を正しく守って
生活していることを示してやりなさい」と言いました。それは、ユダヤ人の信者の中には、「たとえ
キリストの救いを信じたとしても、全能主からの律法を無視してはいけない」と考えて、パウロに
反感を持っている者たちがいたからです。この時、パウロさんは、使徒たちの言葉に同意した為、
また律法の世界に入ってしまい、その結果、「罪が息を吹き返し、私は死にました」(ロマ7:9)と、
後悔を吐露することになってしまったのです。
(転) さて、このように見て行きますと、「キリストは何故、律法を廃止されたのか」に、注目が
向かいます。その答えは、「罪人にとって律法が、負い切れなかった荷」(使徒15:10)であった
からです。なぜなら、生まれながらの罪人は、自分の行いと努力では、律法を守り切れなかったから
です。そこで、パウロはキリストに出会った時に、キリストが、御自身の命を代価として、負いきれ
なかった律法の負債を払って下さったことを知ったのです。だからパウロは、律法により頼んでいた
自分が、間違っていたことが初めて分かり、その時以来、パウロは全能主の前に、「砕かれた悔いし
心」を表して行くことだけが、罪人の生きる道だと確信したのです。だから、パウロは「誰でも、
モーセの律法では義とされることのできなかったことを、このイエスによって義とされて、罪の赦しが
与えられる」と、語ったのです(使徒13:38~39)。ところが、パウロは生まれながらに律法の
下で生きて来た人であった為、つい自分の肉を刺激されたときに、再び律法の虜になってしまいました。
この経験は、私たちクリスチャンの中にもあります。肉が刺激されると、「異邦人である私たちでさえ、
出来もしないのに、律法を大事にすべきだ」という意識が入って来るのです。そして、「全能主の前に
正しい行いをしていくべきだ」という正義感が働くようになります。すると、全能主の前に「砕かれた
悔いし心」を持つことが、出来なくなります。なぜなら、自分は100%罪人であるという意識から、
離れて行くからです。この律法の下に身を置いてしまうと、罪人は僅かばかりでも自分の力に頼って、
正しくなるべきだと思ってしまうのです。すると、パウロと同じように、「私は、かつて律法から
離れて生きていましたが、戒めが蘇って来た時、罪が息を吹き返し、私は死にました。」(ロマ7
:9)という事になります。すると、パウロも味わったように、「自分のしたい善を行わず、したく
ない悪を行ってしまう」というジレンマの中に入って、「救いとは一体何なんだ?」という不信仰の
世界に入り込んでしまいます。こうなると、信じた時に分かった「自分は100%罪人で、お手上げの
者が救われた」という信仰の原点から離れてしまい、未信者時代に逆戻りして「クルシミチャン」に
なってしまうのです。すると、私たちが「イエス様のアオリストの救いしかない。そして、砕かれた
悔いし心が一番大切だ」と学んできたにも関わらず、「その中に入って行けなかった理由」が、見えて
来ます。それは、自分の心の中に、解放されたはずの律法が、僅かばかりに入って来たため、「10
0%罪人です」という心から離れ、「こうあるべきだ」という義を立てて行かねばならないと思って、
無理して来たからです。だから、100%罪人であるという事を認め切らない状態に陥ったのです。
(結)では、私たちはどこへ戻って行けばいいのでしょうか?それは、キリストが、私たちの負い切れ
なかった律法を廃止して下さったのですから、私たちは、信じた初めの心である「自分は、どうにも
ならない100%罪人です」という、「砕かれた悔いし心」に戻って、これを持ち続けて行けばいいの
です。なぜなら、キリストは罪人を救うために来て下さいました。そのためにアオリストの救いを
下さったのです。ですから、私たちは自分に根拠を置くような義は一個もないことに気付きましょう。
そして、私たちが罪から離されるのは、世を去って、パラダイスに迎えられる時だからです。だからと
言って、罪を犯していいと言うわけではありません。自分自身から出てくる罪は、ほどほどにしなければ
ならないし、人をつまずかせる罪を避けるように心を使うべきです。そのような意味で、異邦人への
手紙の戒めは、正しかったのです。でも、私たちが、義人として生きて行くことはできません。
ですから、「全面的に罪人であることを悟ったら、キリストに全面的に頼って、全ての事をやらせて
もらえる」という心に変えて行きましょう。そして、全能主の前に、砕かれた悔いし心を表して行く
中を歩んで行きましょう。
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