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2022年11月20日

献身の本心を貫き、その為に自分の命を使い尽くす』

使徒の働き 20:17~24


(起)使徒行伝20章24節、「私は自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた全能主の

恵みの福音を証する任務を、喜びをもって果たすことができるなら、この命は少しも惜しいとは思い

ません」
と言い切ったパウロさんの生き方のように、私たちも「全能主から与えられた献身の心を自分

自身の霊の本心として貫き、その為に自分の命を使い尽くすこと」
を学んで行きたいと思います。


(承)さて、24節で語られている「自分の走るべき行程を走り尽くす」とは、「自分の命を使い尽くす」

という事を意味します。このことは、私たちにも語られていることです。では、一体誰のために自分の

命を使い尽くすべきなのでしょうか。大抵の人は皆「自分の命は自分のもの」と思っていますので、

自分の命は、自分の思い通りに使うことが当たり前だと思っています。しかし、もし自分の命が自分の

ものではなく、与えられた命ならば、どうでしょう。その場合は、当然のごとく命を与えて下さった

方のために使わなければ、私たちの人生は、的外れの生涯で終わることになります。それは、命を

与えて下さった方の意向を無視することですから、最後には「自分の(おこな)いに従って清算され、

痛い仕打ちを受ける」ことになります。
ですから、今私たちは「自分の命をどのように使い尽くせば

いいのか」
ということを、はっきりと理解しなくてはなりません。その為には、まず自分の命が、

偶然に存在したのか、或いは、命を与えて下さった全知全能のお方がいるのか、ということを知る

必要があります。
そこで、まず考えていくことは、「人間の命の仕組み程、緻密(ちみつ)に出来上がって

いるものはない」ということです。そして、その命の仕組みが偶然に存在し得るのかどうかです。

この命の仕組みは、人間が自由に作り出せるものではありません。私たちは、自分の体の精巧(せいこう)

仕組みが創り上げられていることに、驚くべき偉大な知恵が存在することを、テレビ等を通して感動

させられています。例えば、体内で最初に創られる臓器は心臓です。しかし、心臓だけ作られても

意味がありません。そこに血液が流し込まれ、心臓から押し出されるまでに、血管と次の臓器に繋げ

られて行く仕組みが必要です。そこには、緻密(ちみつ)なコントロールが必要となるのです。もし、

それが偶然であるならば、デタラメな作業となって破壊されて行くだけでしょう。しかし、規則正しい

作業で組み立てられて行くなら、生きる機能となって、全ての赤ちゃんが10か月程かかって完成

されて行くのです。そんな規則正しい作業がどのようにコントロールされ、仕組まれて行くので

しょうか?それは、英知に満ちた全知全能な創造主がいなければ出来ない代物(しろもの)です。そうでない

ならば、人間の手が加えられることなく、オートメイションで創られて行く過程を、いったい誰が

コントロールしているのでしょうか?その計算され()くしたコントロールは、知性が存在しな

ければ、成り立ちません。ここに、智的デザインを施された全能主の存在を垣間見るのです。この命の

製作には実に精巧(せいこう)なコントロールが必要であり、偶然の(わざ)で出来るものではありません。

ですから、「私たちの命を創りだされた全能主の存在を認めない訳にはいかない」のです。そこで、

この事実に目を留めて行くと、新しい景色が見えてきます。即ち、「全能主が私たち一人一人をデザイン

して、目的を持って創り、生かして下さった」
というのが、「私たちの命である」ということです。

それならば、「私たちが全能主のために、自分の命を使い尽くす根拠は、ここにある」という事

が見えてきます。この見方をすれば、これからの私たちの人生に明確な目標が示されます。しかし

ながら、このことを知っている多くのクリスチャンでさえ、「自分の命は自分のものだ」と思って、

「頑なな我」に留まっているのが現実です。そこで悟って欲しいことは、先週もお話しした通り、

「私たちは自分の思い通りには生きられない」ということです。もし本当に自分の命が自分のもので

あるなら、自分の思い通りに生きることができるでしょう。しかし、()(あら)ず、自分の体や

自分の心が自分の思い通りにならない現実を私たちは抱え込んでいます。例えば、私たちがイエス様の

救いを信じようと思った時、自分の思い通りに信じることはできませんでした。幾ら信じるべきだと

分かっても、心が付いて行かず、自分の心が思い通りにならないという経験を味わっています。また、

献身も同じです。献身の心は主から与えられるものですから、消えることはありませんが、実際問題、

主に対する献身の心を持ったとしても、「その通り実行する生き方が出来るか」というと、そういう

訳にはいきません。むしろ、自分の心を自分でコントロール出来ず、かえって自分のしたくない悪を

行ってしまうのが、私たちの情けない現実です。
それは、「人間は完全ではないから仕方がない」と、

一般の人はそのように言って諦めるのですが、クリスチャンもまた、世的な考えに流されてしまうの

です。これは本当に厄介な問題です。


(転)では、私たちはどうしたら()いのでしょうか。それは、私たち自身を創って下さったお方に

頼る以外ありません。そのお方は、私たちの心を開いて、イエス様の救いを信じることができるように

して下さった特別な方です。それならば、このお方に、私たちができないと思うことをしていただく

しかありません。ということは、自分の考え通り生きて行くのではなく、この特別なお方にあって

生きて行かなければ意味がないし、そのお方の為に生きることが、人間の生きる本懐(ほんかい)であるという

ことです。
そのことをパウロさんは、ハッキリと主張していたのです。もし、自分の命が自分の心の

思い通りにならず、()(すが)るお方もいなければ、私たちの人生は、ただ迷いの中で生涯を

終えるだけになります。たとえこの地上で功績を残したとしても、年老いて老いぼれるなら、周りの

者から厄介者扱いされて、「自分は何のために生きてきたのだろうか。自分の命は自分のものであった

はずなのに、なぜ今このようなゴミ扱いを受けるのだろうか」と落胆し、人生を終えて行くしかなく

なります。ところが、私たちは、私たちの命を目的を持って創って下さり、私たちの心を特別に取り

扱って下さったお方に心を向けることができるのです。
即ち、私たちの心を変え、私たちを正しい

方向に向けて下さった特別なお方のために生きて行く道があるのです。それが私たちにとって最高の

生き方であり、本来の命の使いどころです。


(結)こういう訳で私たちは、「私たちに命を与え、私たちに信じる信仰を与えて、私たちが()

()きと生きて行くことができるようにして下さった特別なお方を知った」のですから、そのお方

のために生きて行きましょう。パウロは、そういうお方の為に、「喜びを持って任務を果たし終える

ことが出来るなら、この命は少しも惜しいとは思わない」
と言いました。私たちも、パウロさんの

スピリットをもって、生涯を走り続けたいと思います。それは、自分でやろうと思ってできるもの

ではありません。主にやらせてもらうのです。もし、そのようにやらせて頂けたならば、私たちも

「この命は少しも惜しいとは思いません」
と言うことができます。私たちに与えられているこの

命は、今しか使えません。
命を失った後は、永遠の滅びの中に行くか、永遠の御国の中に行くか、

どちらかしかないのです。どうか、私たちも全能主から与えられた献身の心を自分自身の霊の本心

として貫き、その為に自分の命を使い尽くそうではありませんか。



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