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2022年12月4日

負いきれない律法による義から、
全てをキリストに委ね信頼する行き方へ

使徒の働き 26:4~8、ロマ書10:4


(起)ロマ書10章4節「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法を終らせられたの

です」
という御言葉から、自分は100%罪人という事実を、さらけ出して認め、「砕かれた悔いし

心」を持って、
キリストにどこまでも委ね信頼して行く生き方を、学んで行きたいと思います。

(承)さて、使徒行伝26章に入ると、パウロがアグリッパ王の前で弁明する場面が出て来ます。

そこで、パウロは
弁明の席に立ち、「私は今、全能主が私たちの父祖に約束された『復活の望み』に

ついて、裁判を受けている
のです」と語りました。しかし、パウロが実際に訴えられている事柄は、

「復活の望み」
についてではありません。「復活の望み」とは、旧約聖書に記されている新しい天と

新しい地、即ちユダヤ
人に約束された千年王国のことです。ユダヤ人はその約束を信じていまし

たので、彼らが復活の望みを持っていない筈がありません。なのに、パウロが「復活の望みに

ついて裁判を受けている」と言ったのは、彼らを攪乱(かくらん)する意図(使徒23:6)であって、

事実ユダヤ人が訴えた事柄は、パウロが「ナザレ人イエスは、メシヤである」と主張し、「モー

セの律法はキリ
ストに依って廃棄された」と語っている律法の問題でした。ですから、パウロは

自分の訴えについて、論点をすり替えて弁明したのです。本来のパウロの宣教は、「ユダヤ人が

律法を守ることによって義とされると思っていた考えは偽善であり、律法は人間にとって負い

切れない荷である」
という主張でした。そして、「律法を守り
切れなかった罪人に対しては、律法を

終わらせたイエスが、メシヤ(救い主)として、贖いを成し遂げて下さった
というのが、パウロが

語るメッセージであった(はず)です。それなのに、パウロはそのテーマを避け、「復活の望み」に論点を

おいたのです。


(転)実は、この律法からの解放のメッセージは、今日の私たちにも重要なテーマであって、

その内容こそが、
全能主が一番伝えたかった事柄です。なぜなら、人間は生まれながらに罪人として

生まれてきた為、全能主の
律法をいつも破り続けてきました。そんな人間にとっては、律法からの

解放がなされなければ、救いはあり得ません。そのために、この律法の問題から解き放って下さっ

たのが、イエス・キリストです。ですから、今日(こんにち)救われたクリスチャンの生き方の重要な

テーマは、律法から解放された、新しい歩みをすることなのです。
この律法というのは、ユダヤ人

だけの特別な教えのように思われるかもしれませんが、そうではありません。異邦人
である私たちも、

子供の頃から「こうしなさい、ああしなさい」という律法の(もと)(しば)られてきました。

ですから、
()い子ぶって「言われた通り、やって行こう」という律法に捕らわれていたのです。

しかし、心の中にある魔物の
声に邪魔をされて、現実は「言われた通りにできない、意志の弱い、

情けない自分」を抱え込んできたのです。しかし、私たちがキリストを信じた時に、初めて

「自分たちが負い切れなかった律法という掟」から救い出され
ました。ですから、私たちの地上の

歩みは、「律法から救い出して下さったイエス様に依り頼んで生きて行くこと
であり、これが私

たちの信仰の表し方なのです。
ところが、信じた後、聖書を読み始めると、どこを読んでも厳しい

戒めが書いてあります。ですから、信じる前に持っていた律法よりも、もっと高いレベルの律法が

私たちの心の中に
入り込んでしまったのです。そして、「信じたのだから、聖書に書いてある通りに

出来なければ、御国にも入れて
もらえない」と思い、何もかも、自分に課して行く未信者時代の

生き方に戻ってしまいました。それは、パウロ
さんも経験したことです(ロマ7:9)。ですから、

律法からの解放を曖昧(あいまい)にすると、大きな過ちの入口となっていきます。なぜなら、イエス様

は、山頂の垂訓を語ることによって、もう一度、「人間は罪深い者である」という事実を私たちに

思い知らされて、その(あと)で「わたしが来たのは、義人を招く為ではなく、かえって罪人たちが

悔いて考えを入れ替えさせる為に来たのです」(マタイ9:13)と言われ、「律法から解き放って

罪の贖いをするために来た」という、メッセージを残して下さったのです。それなのに、元々ユダヤ

人でさえ律法を守り
切れていなかったものを、異邦人である私たちが律法によって義とされようとした

のは大間違いです。ですから
今日(こんにち)のクリスチャンは、もう律法に頼らず、御霊の声を聞いてキリ

ストに頼って行くと決めるべきです。
そうすれば、信じる者に働く、全能主の力がいかに偉大である

のかを、知ることができるようになるからです。だから、ただ「砕かれた悔いし心」を持って、

徹底的にキリストにあって生きて行くことを始め出せばよいのです。すなわち、
「罪人の自分は

認めて行けばいい。隠す必要はない」
という、「砕かれた悔いし心」の中に入って行けばよいのです。


(結)
では、その為に、私たちはどうすればいいのでしょうか。それは、信じた時に味わった、「砕かれ

た悔いし
心」に戻ることです。即ち、善を行いたいという気持ちはあっても、実際にはそれを行う

ことができず、かえって、したくない悪を行ってしまう私たちの現実の姿を認め、律法を守って

義とされる道ではなく、
「主に委ね、主に
信頼し、主が成し遂げて下さる」という、信じる信仰の

道を歩み出すのです。
なぜなら、私たちは、命閉じるまでこの肉の姿を捨てることは出来ないからです。

それは、「この卑しい体が贖われる時」まで、待つしかありません。それでは
今、どうなすべきか

というと、律法はイエス様が終らせて下さったのですから(ロマ10:4)、自分に頼って御言葉に


従うのではなく、キリストに徹底的に依り頼んで、御言葉に従って行くのみです。
それを、パウロ

さんはしました。「私が今、肉体にあって生きているのは、私を愛し、私の為に御自身を捧げられた

全能主の御子を信じ仰ぐことによって、生きているのです」
(ガラ2:20)という御言葉に徹した

生き方です。それは、自分に頼らず、キリストを信じて依り頼んで行ったジョージ・ミュラーさんの

ように、何もかも全部キリストにあって決断することです。自分自身の損得で手っ取り早く決断

してはいけません。「砕かれた悔いし心」は、へりくだって、前に進んでいく信仰です。それは、

徹底的に主に信頼し
徹底的に主に預けて行く勇気ある信仰です。ならば、今後どう
なろうが、

主に委ね、主に信頼して主に成し遂げてもらうのです。
この地上での罪人の生き方は、キリストに

頼り続けることです。どうぞ、キリストにどこまでも懸けて行くと決断し、その生き方を始め出し

ましょう。



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