教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2022年10月2日

全能主が願っておられる実を結ぶ為の命

マタイの福音書 20:1~16、21:18~22


(起)マタイ20章16節「後の者が先になり、先の者が後になる」という御言葉と、21章19節

「今から後、いつまでも、お前には実がならないように」
と言われて、いちじくの木を枯らされた

御言葉から、「私たちの命は、全能主の目的のためにあり、全能主が願っておられる実を結ぶだけの

もの
」であることを学んで行きたいと思います。


(承)さて、19章27節を見ると、ペテロは「私たちは一切を捨てて、あなたに従って参りました」

言いました。すると、イエス様は「誰でも、わたしの名のために、家、兄弟姉妹、父母、妻子、あるいは

畑を捨てた者は皆、その百倍のものを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」
と言われたのです。

しかし、その後で、「多くの場合、先の者が後になり、後の者が先になるでしょう」とも言われています。

すなわち、「すべてを捨てて、主に従った弟子たちのようであっても、それで優位に立つとは一概には

言えない」ということを、主は語っておられたのです。では、どういう場合に「先の者が後になる」

のでしょうか?そこで、イエス様は次の譬え話をされました。「ある主人が、自分のぶどう園に労働者を

雇うために、朝早く出掛けて行き、労働者たちに一日一デナリの条件で雇いました。同じように、9時、

12時、午後3時、5時にも出掛けて行って、労働者を雇いました。そして、夕方になって賃金を払う時、

一番初めに雇われた者が言いました。
『最後の者たちは、たった一時間しか働かなかったのに、

あなたは、一日中労苦と暑さを辛抱した私たちと同じ扱いをなさいました』と不平をぶちまけました。

すると、主人は、『私の物を私がしたいようにしたからといって、何の文句があるのですか』と言って、

彼らに約束通りの賃金を渡して帰らせました。」この譬え話を通して、イエス様は「先の者が後になる」

語られたのです。そして、もう一面として、5時から雇われ、喜んで一デナリを貰って帰って行った者の

ことを「後の者が先になる」と言われたのです。つまり、この地上で、たった1時間しか、主のために

働くことのできなかった者でも、「後の者が先になる」
ということもあるのだよ、ということです。

ここまでは、御言葉の意味通りに理解できます。ところが、もう一面として先の者が先になり、

後の者が後になる」
ということも当然起って来る事でしょう。その事について、主は、弟子達の捨て身の

信仰の報いについて語られました。
その内容は、譬え話にあるように、もし朝早くから働いた労務者が、

主人に文句を言わず「わたしに働く場所を下さって本当にありがとうございました」と言って、感謝

して帰って行ったとすれば、その主人は「わたしは、お前を使って良かった」と言って喜ばれたことで

しょう。
これが「先の者が先になる」ということです。この(へりくだ)りこそが、最も重要な真理です。


(転)では、先の者が先になるために、大切な信仰の要素とは、一体何でしょうか。それは、21章

18節から見て行くと分かります。イエス様は、朝早く起きて空腹を覚えられ、いちじくの木があるのを

見て、そこへ行かれました。しかし、ただ葉の他は何も見当たらなかったので、その木に向かって

「今から後、いつまでも、お前には実がならないように」と言われ、いちじくの木を枯らしてしまわれ

たのです。ここを読んで行くと「何故そこまでするのですか?」と、疑問を持ちたくなります。

しかし、ここで理解していただきたいのは、イエス様は創造主であるということです。即ち、ご自分が

創ったのですから、それを枯らしても何の問題もありません。
ただ、人間は感情に囚われやすいので、

「実の成る季節でなかったものを、どうして枯らすのですか」と疑問を持ちたくなるのです。しかし、

この枯らされた木のことを、私たち人間に当てはめて考えた場合、どうでしょうか?
私たち人間も、

イエス様によって造られた被造物なのです。ですから、創造主であるイエス様が私たちを生かそうが

殺そうが、被造物である私たちは、何も文句を言えません。もし、全能主の目的の中で、私たちが

枯らされるなら、それは何の問題もない事です。
例えば、日本では何千人という信じたキリシタンたち

の多くが、迫害され、拷問を受けて殉教して行った歴史があります。しかし、その場合、それは全能主が

その人の命を用いて、「死に至るまで忠実であれ」という信仰の証を結ばせたのであれば、全能主の

意向に適った死ですから、それで良いのです。即ち、全能主が、私たちをどのようにお使いになり、

どのように実を実らせようとしておられるかは、全能主の御心次第です。このことを教えられている

私たちは、先の者が先になったキリシタンの人々がいることを知るのです。しかし、現在の多くの

クリスチャンたちはどうでしょうか。自分の満足のために生き、自分のために実を結ぼうとして

います。彼らの多くは、全能主の恵みを利用しているだけの信仰者です。
それでは、先の者が先になる

ことはありません。
否、むしろ、先の者が後になってしまうのです。患難時代の前にいる私たちは、

真理を教えられた先の者たちです。
だから、もし、私たちが創造主によって造られたこの命が、自分の

ものではなく、創造主のものであることを自覚して、御利益を願って行く身勝手な信仰から離れ、この

命を全能主のために用い、全能主の願いに適った実を結んで行くなら、これが、先の者が先になる

ということです。
何という、前向きな生き方でしょうか?この生き方こそが「この命を全能主の

目的のために使って頂き、全能主が願っておられる実を結んで行く」
最高の生き方です


(結)ですから、私たちは、この地上のこの命は、全能主の御心のままに使い捨てにされても良いの

です。逆に、自分が一生懸命努力して、この地上の人々に認められるために心を使って行くことは、

ただ、全能主を利用していくことになります。それは、ただの御利益宗教です。キリストの贖いは、

アガペーの救いです。ならば、喜んで全能主の目的に適った良い実を結んで行くべきです。私たちの

残りの人生は、全能主から与えられた命ですから、気張って肩の力を入れ、自分の力に頼って行く

ものではありません。むしろ、力を抜いて、全能主にお任せすれば良いのです。私たちの命は、全能

主の目的のために使っていただき、全能主が願っておられる実を結ぶだけのものです。
このことを

自覚した時、全能主から御霊の力を頂いて、全能主の御心に適った実を表す働きができるでしょう。


どうか、全能主が喜ばれる、全能主が求めておられる実を結ぶ者になって行こうではありませんか。



 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室