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2022年10月9日

全能主を愛し、全能主を第一にしていく道を完遂する

マタイの福音書 22:34~40


(起)マタイ22章37節「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、ヤハウェなるあなたの全能

主を愛せよ
という御言葉から、「どこまでも全能主を愛し、全能主を第一にして行く道を完遂(かんすい)して

くこと」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、一人の律法学者が、「律法の中で、どの戒めが一番重要ですか」と、イエス様に質問しま

した。すると、イエス様は「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、ヤハウェなるあなたの全能

主を愛せよ
これが最も重要な第一の戒めです」と言われました。このようにイエス様が「全能主を

愛せよ」と言われたことは、私たちにとって幸いな勧めです。なぜなら、もし「盗んではならない」、

「嘘を言ってはならない」という道徳的(十戒)な戒めを求められたら、私たち罪人は皆、お手上げ

だからです。しかし、「全能主を愛せよ」という心は、救われたクリスチャンなら、誰でも持つことが

できます。この「心を尽くすとか、精神を尽くすとか、思いを尽くす」とは、私たちの霊魂(れいこん)の内に

ある魂の部分です。解りやすく言うと心の部分です。キリストの救いを受けたクリスチャンなら、当然

イエス様を信じる信仰が心の中に入りました。その信仰を持てば、全能主を愛する心は当然出て来るはず

です。そして、続けてイエス様は「『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよという第二の

戒めも、それと同じくらい重要です」と言われました。しかし、この戒めは「全能主を第一に愛する」

ところから出てくる戒めです。
第一の戒めを飛ばして、第二の戒めは出てきません。ですから、どこまで

いっても、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、ヤハウェなるあなたの全能主を愛せよ


いう戒めが一番重要なのです。すなわち、「クリスチャンは、誰にも負けないくらいに、全能主を愛して

きました」と言えるようにならなければなりません。しかしながら、私たちは罪人ですから、全能主を

愛しているにも関わらず、罪を犯してしまう様な魔物を抱えた救われた罪人です。そういう自分の心を

見ると、私たちの内にいる魔物が、私たちに訴えかけて来て「お前のような者が全能主を愛すると言える

のか」と訴えてきます。何故なら、悪魔は私たちの罪や弱さを一番よく知っていますから、私たちを日夜

訴えて弱気にさせるのです。しかし、たとえ魔物に(おびやか)され「お前なんかダメだ」と否定されたと

しても、それでも「私は全能主を愛します」という気持ちを通して行くことは正しいことです
。なぜなら、

魔物は当たり前のように、私たちの弱さを日常的に突いてくるのが仕事だからです。
しかし、私たちは

救われた罪人
ですから、「その通り、わたしは罪人だ。それでもキリストによってアオリストの救いを

頂いているから、全能主を愛します」と、悪魔にハッタリでも何でもいいですから、はっきりと表明して

悪魔を退けて行けばいいのです。そうすれば、悪魔は去って行きます。この表明によって戦って行く事が

まさに信仰なのです。
そして、これを通して行くことが、どこまでも全能主を愛していく秘訣になって

いきます。このように、第一に「全能主を愛する」という強い心を持って信仰を表わすことは、全能主が

喜ばれる信仰のあり方です。


(転) では、「全能主を愛する」という強い心を持って行くために、必要な心構えは何でしょうか。

それは、自分を否定し続けて行くことです。
「誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分を徹底的に

否定し、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」
とあるからです。もし、自分を否定しないなら

自分の感情や自分の考えが前に出て、全能主を第一にする事が出来ません。自分の我が先立つと、全能

主を愛する気持ちが二の次、三の次になってしまいます。ですから、自分の弱気な信仰の心を否定する

ことによって、初めて全能主を第一にして行くことができるのです。
それが、私たちにとって、
信じる

信仰の純を通す」
ということになるのです。この世では、自分よりも全能主を第一にするという純な

心を通すことは、馬鹿にされます。「そんな、目に見えないものに頼っていても、仕方(しかた)がないぞ!」、

「そんなのは無駄だ」という声が聞こえてきます。そして、どこまでも「地上の常識で考えろ」

(あなど)られてしまうかも知れません。しかし、それでも私たちは全能主を第一にするべきです。もし、

それで見くびられたり、(はずかし)められたりして、信じる信仰をバカにされたとしても、それは受け留めて、

泥を被って行けば良いのです。すると、主はどこまでも全能主を第一にする私たちの信仰を喜び、

その信仰の姿勢に報いて下さいます。その道を通したのがジョージ・ミュラーさんです。即ち、どこま

でも全能主を信じ、全能主を第一にして行くなら、全能主が事を成し遂げて下さるということです。

ですから、全能主が全てを成して下さるという前提で、私たちはこの純な信仰を通して行くのです。

(結)こういうわけですから、何よりも「まず全能主を第一にして行く」ことだけは、絶対に(ゆず)っては

なりません。
この純な心を通して行くのが、真のクリスチャンの歩みです。たとえ悪魔からバカに

され、非難されることがあったとしても、この生き方を勇気を持って始め出すなら、未信者にも

「この人は自分勝手な気持ちでやっているのではなく、ちゃんと人のことも考えながら、

一生懸命やろうとしている」
という評価に変わって行くでしょう。そして、いずれ家族にも分かって

貰える日が来ます。
だから、人に受け入れられ、人に喜ばれることを目指すのではなく、どこまでも、

まず全能主を第一にして歩む時に
「隣人を愛して行く心」が、人々の心にも浸透して行くことになる

でしょう。それを、実際に試して味わって下さい。私たちの残りの生涯は、「全能主を愛する」と

いう、この一点で行けば良いのです。旧約聖書の中には、あらゆる教えと、戒めが記されています。

しかし、イエス様が一番重要だと言われたのは、結局、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、

ヤハウェなるあなたの全能主を愛せよ」という、この一語に尽きるのです。だから、もう何も余分な

ことを考える必要はありません。いくら自分の弱さを思い知らされようが、悪魔に責められようが、

それでも「私は全能主を愛して行く」という、「信仰による、ハッタリを効かせて行くこと」は、

正しいのです。どうか、このことを覚え、どこまでも全能主を愛し、全能主を第一にして行く道を

完遂しようではありませんか。



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