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                                                                                                                              2022年1月9日


単純に信じる心

― 長血の女の癒やしより―

ルカ福音書8:43~48

(起) ルカ8章の「長血の女の癒し」の記事から、「聖書に書いてあることは今日も起こる」、ひたすら

単純に信じて行く事を学んで行きたいと思います。



(承)
さて、この「長血の女の癒し」は、「ヤイロの娘の癒し」の中に隠れてしまって、取り上げられる

ことが少ないのですが、実はここには、秘められた真理があります。それは何かと申しますと、彼女は

イエス様が
全く気付いていない所で癒されたということです。他の箇所を見ると、イエス様が病人に

直接手を置い
たり、直接言葉を掛けたりして、癒されていった人がほとんどですが、この場合は違います。

44節を見ますと、女は「イエスの後ろから近寄って来て」とありますから、イエス様は彼女のことを
全く

見ていませんでした。しかし、イエス様自身の意識、気持ちが、彼女に対して向けられていな
かった

としても、主の癒しを願う
彼女自身が「せめて御衣にでも触れば癒して頂ける」という信じる心を

持ったとき、それがイエス様に伝わり、伝わったことの証しとしてイエス様から力が抜けて、
「彼女

は癒された」という奇跡が起ったのです。このことを通して、「たとえ目に見えない信仰心であった

としても、信じる心をちゃんと
持っていたら、それはイエス様に伝わる」ということの実例です。

本来、人の心の中は、本人しか分から
ないものですから、他人には理解できない筈です。しかし、人を

創造された全能主とイエス様には、人の心の動きが手に取るようにして分かります。です
から、私たち

しか分からない信じる心は、イエス様には分かり、また、全能主には通じるのです。
そして、この女

に対してイエス様は言葉を掛けられ、「あなたの信じ仰ぐ心が、あなたを救ったのです
。安心して行きな

さい」
と言われました。このように、「心の中で信じたものが分かってもらえ、なお、心の中の気持ち

を受け取ってもらえた
」ということだけで、私たちは嬉しくなるし、安心できます。そのような関係を

持たせて頂ける御方が、イエス様であり全能主なのです。だから、私たちにとって何が
一番大事かというと、

心です。
たとえ言葉に上手(うま)く表せなかったとしても、心の中の真実は、全能主とイエス様に伝わる

ということです。



(転)ところが、逆に言うと、偽物も伝わります。即ち、「不信仰な心、反抗的な心、疑いの心があれば

たとえ黙っていても、全能主とイエス様には、すぐさま分かってしまうのです。」ですから、私たち

は全能主とイエス様の前に、常に本物を表わさなければなりません。
本物というのは、私たち自身の正直で

真実な気持ちです。
この女性の場合、12年間もの長い間、長血を患っていましたが、どの医者にかかって

も治してもらえず、身代(しんだい)もみな使い果たしてしまいました。ですから、「もう自分が(すが)ることが出来る

のは
イエス様しかいない」という崖っぷちに立たされていたのです。そんな中で、彼女の本心は、

はっきり言って御利益(ごりやく)を求める心であり、病を治して欲しいという一心だけでした。でも、イエス様

なら治して
頂けるという意識を持ったことも嘘ではありません。実は、本物とはその程度で良いの

です。
本気で(すが)気持ちを持って近付いた時、イエス様はその心を無下(むげ)にはされません。

私たちも、この単純な信仰で
良いのです。私達は、すぐ律法的に「こうしなければならない」とか、

「こういう心にならなければ聞いて貰えない」と考えてしまいます。しかし、イエス様に受け
入れら

れる祈りは、私たちが本心でどう思って
いるか。ただそれだけが信仰なのです。少なくとも、純粋に

イエス様や全能主に繋がった気持ちであるならば、それは信じる心ですから、安心して
良いのです。

ところが、自分中心な傲慢な心に繋がった
気持ちであるならば、それは自分の中の魔物の声と繋がって

いるものです。その違いは、同じ御利益(ごりやく)でも、試して利用しようとする心があるかないかで違いが

表われてきます。試す気持ちの入っていない心とは、「へりくだりの心が、その心の中
にあるもの」

です。
その心の内は、イエス様なら分かります。だから、そのことに関しては、口に出したり、考えたり

する必要はありません。例えば、私たちが罪を犯したり、失敗を
してしまった場合、私たちはつい

弁解がましく、言い訳をしようとしますが、そういう時は、必ず自分を守ろうとする心と
繋がっています。

しかし、私たちの心の真実は全能主には全て見えているのですから、私たちがいちいち言葉にして

弁解する必要はありません。全能主の前では、「私が悪かったのです」で、
充分なのです。これが

私たちの正直で真実な気持ちであり、全能主に対する生き方なのです。



(結)
こういう訳で、もうぐだぐだと言い訳を考える心を捨て去りましょう。私たちは自分自身の本心を

見て、事実に対して認めるだけです。それは、全能主と繋がった霊的な真実です。全能主と繋がって
いない

自分中心な心なら、それは自分の中の魔物の声と繋がっていますから、口に出すのを()め、考えるの

()めましょう。常に、全能主と繋がった心かどうか、そこだけを見て行けば良いのです。

私たちの嘘のない真実な心は必ず伝わります。
どうか、私たちは聖書に書いてある全能主とイエス様の

言葉をそのまま信じて、ジョージ・ミュラーのように、「聖書に書いてあることは今日も起こる」と、

ひたすら単純に信じて行こうではありませんか。


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