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                                                                                                                               2022年1月16日


『砕かれた悔いし心を土台として

ルカの福音書12:22~34

(起) ルカ12章33、34節の御言葉から、「砕かれた悔いし心のイメージを持ち、その心を土台と

して、本気で聖なる都を追い求めて行くこと」
を学んで行きたいと思います。



(承)
さて、私たちが今生活しているこの日本は、昔と比べると随分豊かになって、ある程度自由に食べ

たいものが食べられ、着たいものも着られる時代になっています。 ところが、この豊かさによって


私たちは本当の幸いを得ているのか? 魂に喜びと平安があるのか?と言うと、そうではありません。

いつの時代にも悩みはあり、苦しみがあります。それは、この世の君である悪魔が、この世界を

支配下に置いており、また罪深い人間の心の中には魔物が潜んでいるからです。その魔物によって影響を

受けた魂に、醜い思いが込み上がって、人を苦しめるのです。だから、いくら地上での生活が
豊かになった

としても、罪がある以上、人間の心は貧しいままであり、罪が私たちを不幸にさせます。となると、

私たちにとって一番の幸いは何かと申しますと、この罪の世界から解放されること、即ち、全能主の

御国に入れて貰うことしかありません。33節を見ますと、「自分のために古びることのない財布を

つくり、盗人も近寄らず、虫が食うこともない、朽ちない宝を天にたくわえなさい」とあります。

「盗人も近寄らず、虫が食うこともない、朽ちない宝」とは、決して地上にあるのではなく、

「もはや、
死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない所」すなわち、「全能主の御国」にあるのです。

なぜなら、そこは「全能主が人の目から涙を全く拭い取って下さる世界だからです。」(黙21:4)

しかも、私たちは全能主の御国の中でも、聖なる都を目指している者です。ゆえに、私たちの教会は、

黙示
録を通して「キリストの花嫁になること」を目指しており、聖なる都に焦点を合わせて、その中で

味わう
最も幸いな永遠の命を追い求めているのです。これこそが、私たちにとって、絶対に失って

はいけ
ない宝です。ですから、34節に「あなた方の宝のある所には、心もある」と書いてある通り、

私たちの
心は、地上に有るのではなく、常に永遠の都に心が向けられていなければ成りません。

即ち、私
たちはこの地上に望みを置く者ではなく、新しい命の中で生きる天の都を本気で追い求めている

です。従って、私たちの残りの生涯はそこに焦点が合わされて行くクリスチャンの生き様なのです。


(転)ところが、この生き方を本気で求めて行くためには、御国を目指す信仰をただ頭で理解する

だけではいけません。本気で「信じた行い」を表わして行かねばならないのです。なぜなら、私たちの頭

だけの信仰では、都合が悪くなると、直ぐにこの生き方から離れ、御国を目指す心を忘れてしまうから

です。私たちは、幼い時から色々なことを学び、特に学校に入ってからは、学んだことをノートに
書いて

勉強してきました。しかし、自分がノートに書いて勉強したことを、全て覚えているかというと、

そうではありません。なぜなら、人の頭は、自分の都合の良いように考えを切り替えるようになって


いるからです。ですから、頭に入れたものを自分の生き様として表して行けると思ったら大間違いです


私たちの生き様を表して行くのは、心の中に入ったものだけです。心の中に入った学びは、イメージとして

残りますから、それは簡単には消えません。聖書の中にも、「心の板に書き記す」という表現が
ありますが、

それは、紙に書き記すのではなく、心の中にその言葉を書き残すということです。です
から、心の中

にイメージとして刻み込まれて行くと、それが、私たちの信条となり、その人の生き方に
なって行くの

です。

 では、私たちはどういうイメージを心の中に持って行くべきかと申しますと、「自分は全能主の前に罪

深い者だ」ということを自覚していくことです。なぜなら、私たちは生まれながらに罪の中にいた
から

生まれ出ており、心の奥には魔物が棲み着いていますので、いつも自分中心な考えに囚われています。

ですから、自分は正しいと主張できるような人は、一人もいません。すなわち、自分は他人に
誇れると

思っても、実際は、自分が勝手にそう思っているだけで、義人だと言える人は一人もいません。

ですから、私たちは、その事実を認め、遜って行くべきです。私たちが全能主の前に必要な
ものは、

その正直な「砕かれた悔いし心」だけです。私たちは、そのイメージを持って信仰生活を送り
、全能主

の御国を追い求めて行くのです。



(結)こういうわけで、私たちにとっての宝は、御国の中の聖なる都です。私たちは、勝利を得る者

として、そこに行きたいのです。そのために悟るべき大事な心は、「遜りの心、砕かれた悔いし心」

です。それを、私たちの心の土台とし、全能主の国と全能主の義を、まず第一に求めて行くのです。

どうか、砕かれた悔いし心のイメージを持ち、その心を土台として、本気で聖なる都を追い求めて

行こうではありませんか。


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