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2021年8月29日
肉の世界から離れ、全能主に従い通して行く

ヨハネの福音書16:16~33

(起)ヨハネ16章33節の「わたしは既に、世に勝ちました」という御言葉から、「肉の世界から

離れて全能主の側に立ち、全能主に従い通して行くこと」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、イエス様は十字架に向かわれる前に、「しばらくすれば、あなた方は、もうわたしを

見なくな
ります。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるでしょう。わたしは、父の所へ去っ

て行くからです」
(16節)と語られ、また「これらの事をあなた方に話したのは、あなた方が、

わたしにあって平安を得るためです。あなた方は、
この世では悩みがあります。しかし、勇気を出しな

さい。わたしは既に世に勝ちました
」(33節)と言われました。何故、イエス様はこれから十字架に

つけられて殺されて行くのに、「世に勝ちました」と言えたのでしょうか。
この「世に勝ちました」

という言葉は、一体どういう意味だったのでしょうか。一つ言えることは、ここでイエス様は
「既に」

語っておられるということです。もし、イエス様が「これから十字架につけられ、その後復活する事」

「勝利」と言っておられたなら、地上の生涯が終わる前に、「既に」とは言われなかったでしょう。

ですから、
この「既に」とは、イエス様が十字架に掛けられる前に、弟子達を励ます意味で言われた

言葉です。つまり、イエス様は、これまでの33年間の生涯を、「ユダヤ人にも負けず、悪魔にも負

けず、全能主に従い通した
という意味で言われたのです。それが「既に、世に勝ちました」と言わ

れた意味です。ですから、私たちもイエス様に倣って、この地上の生涯を、勇気を持って全能主に

従い通して行くならば、
「世に対して勝った」と言う事が出来るのです。



(転)
しかしながら、私たちは、いざ全能主に従って行くという段になると、いつも自分自身の弱さを

見せつけ
られて、「自分はダメだ」と思って怖気(おじけ)づいてしまうのです。それは何故かと言うと、

「ああしなければならない」、
「こうしなければならない」、「こうあるべきだ」という律法が働き、

出来ないという恐れに襲われるからです。
それは、気づかないうちに、私たちは「子供の頃から積み

上げて来た律法を持っているのが原因です。
その律法は、親や教師から受け継いで来たものですが、

この律法は自分に対しては棚上げして、ほとんど
無視してきました。しかし、他人にはその律法で裁い

てきたのです。ところが悪魔は、そのことを見抜いています
ので、他人には厳しく、自分には寛容な醜さを

見抜いて、その矛盾を突い
てきます。」悪魔は、私たちが持っている自分勝手な律法を盾にして、「本当

にお前はその戒め通り生きてきたのか?いや、出来なかっただろう。
あの時も、この時も失敗しただ

ろう。だから、お前なんか世に勝てる訳がないだろー。ただ人を裁くだけで、
自分には甘いのだ。」

と責めて来ます。その悪魔の声を聞くと、私たちは自信を失い、自分の駄目さ加減に
失望し、肉の弱さ

に捕われて「自分はダメだ」という虜になってしまうのです。聖書には、「罪の力は律法です」
(第Ⅰコリ

ント15:56)
と書いてある通り、私たちは自分の内に律法を持っていると、その律法によって

自分が
裁かれ、罪人の自分を思い知らされます。しかし、聖書には、「イエス様が律法を廃棄された」と

書いてあります
(ロマ10:4,ヘブル7:18,10:9)。だから、私たちはイエス様の贖い

御蔭(おかげ)で、律法から解放されている立場を持っています。ならば、もう自分自身に律法を課す必要は

ありません。
「こうあるべき」、「こうすべき」といくら自分自身に言い聞かせても、結局はそれは

出来ず仕舞(じま)いに終わります。そんなできない律法は持っていても、何の意味もありません。それより、

私たちはもう律法に(しば)られず、自分の弱さに捕われず、全能主だけ見上げて行くのです。人間は

元来(がんらい)、律法が好きなのです。なぜなら、反省して決意だけはします。そして、「努力すれば何でも

出来る」と思っているのです
。しかし、本気で全能主の律法を守り切れると思っている人がいるでしょう

か?異邦人は全能主の律法は元々無視して生きてきました。しかし、それぞれが「勝手に律法を作っ

て」、如何にも義人であるかのように錯覚(さっかく)しているだけです。だから、自分の都合の良い戒めは課し

ても、
全能主の絶対的な律法は無視しているのです。こんな私たちは、自分では、何も出来ない癖に、

他人には
厳しく接して偽善者(ぎぜんしゃ)ぶるのです。しかし、イエス様はご自分の話を理解しようとしないユダヤ人

や弟子たちがいたとしても、落ち込んだりするのではなく、「どこまでも全能主だけを見上げて」、全能主

に従い通して行かれ
ました。この見上げて行くことが、全能主に従い通す秘訣です。そして、もう一つ

言えることは、イエス様は、
罪のない全能主の御子(ロゴス)であると同時に、マリヤから生まれた

事によって、当然マリヤの肉を担ってこの世に来られました。(イエス様は胎盤を通してマリヤの

肉の影響を受けなかったと言う人がいますが、
人の形を取るためには、当然マリヤの遺伝子と聖霊に

よるイエス様の遺伝子によらなければ、人の形を取ることは出来ませんし、「人の子」と呼ばれる

ことも出来ませんでした。ですから、パウロはロマ書8章3節では「罪
深い肉と同じような形でお遣

わしになり」と言われているのです。)ですから、もしイエス様がマリヤの罪の
肉に捕われてしまった

なら、聖なる全能主の御子であっても、罪を犯してしまう可能性はあったのです。ところが、
イエス様は

ご自分の生涯中、聖霊の強力な助けを受けて、マリヤの罪深い肉に捕らわれる事はありませんでした。

ですから、人のための贖いが成立したのです。即ち、肉に働く律法(罪の力である律法)に捕らえ


れるのでは無く、全能主の御子である自分と、マリヤの肉を担った自分をきちんと分けて、はっきりと絶対

主の側に立たれたということです。
ここで一言、マリヤの肉を背負ったことによって恐怖心を抱かれて弱音

を吐かれ
ましたが、それでも最後はゲッセマネの園にて、全能主に従い通されました。これは、私たち

に対する模範です。私たちも生まれながらに肉を持っていますので、弱気な心が出て来ます。しかし、

イエス様を信じた
私たちの内には御霊様もおられますので、イエス様と同じように、自分自身の霊と

肉を分けて行けばいいのです。
私たちは、生れながらの自分の弱さ、性格、あらゆる肉の性質を持って

いますが、そこに意識を留めると、
罪の奴隷になります。しかし、敢えて罪人の肉を持った者であって

も、イエス様のように、全能主の子とされた
自分と、生まれながらの罪人の肉をきちんと分けて、はっき

りと全能主の側に立つのです。
それを御霊の助けを頂いて、いつでも、どんな事柄に対しても、はっきり

と御霊の側に立ち、全能主に信頼して従い通して行くのです。これが御霊によって歩むと言うことで

す。


(結)私たちは、自分自身の肉の弱さはもう十分知っています。いくら自分自身に律法を課せても、

自分が変わるわけではありません。だから、そんな律法からは離れましょう。私たちはもう律法から

解放されたのです。ですから、律法を勝手に作る必要もないし、人が作った律法に縛られる事もあり

ません。どうか、律法の罪の力から離れて、全能主だけを見て行きましょう。そして、全能主の側に

はっきりと立ち、全能主に従い通して行こうではありませんか。
私たちは、世では、どこまでも

悩みがあります。しかし、勇気を出しなさい。イエス様は、既に世に勝ち、全能主に従い通されまし

た」(ヨハネ16:33)。ですから、イエス様の生涯を見倣(みなら)って、私たちも勇気を出して、全能主

に従い通しましょう。


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