教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2021年9月5日

肉と霊を区別する

ヨハネの福音書21:15~23

(起)肉と霊をきちんと区別して、自分自身の信仰をはっきりと表し、全能主に従い通して行く

こと
」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、イエス様は、復活された後ガリラヤ湖で弟子たちの前に現れ、彼らと共に食事を

されました。そして、食事を済ませた後に、イエス様はペテロに問いかけ「あなたはこの人たち

以上に、わたしを愛し
ますか」と、聞かれます。すると、ペテロは、「はい、主よ。私があなたを

愛することは、あなたがご存じです」
と答えました。その(あと)、イエス様はペテロに対して同じ質問

を2回されたのですが、ペテロは3回とも全て
同じように答えたのです。この時、ペテロはなぜ

「愛します」
とはっきり言わず、イエス様に預けた言い方を
して「あなたがご存じです」と、他人事

のように言ったのでしょうか。以前のペテロなら、「たとえ人がつまずいても、私はあなたに

つまずきません」
とはっきり言って、主を愛する気持ちを表わしていました。その彼がそれ程、

強い気持ちを持っていたのなら、この時も、他人がどうであろうと、「私はあなたを愛します」

と、
はっきり言って良かった(はず)です。ところが、ペテロは3回も自分の気持ちをはぐらかし、21節

ではヨハネを
引き合いに出して、「主よ。この人はどうなのですか」と比べて逃げたのです。

しかし、ヨハネのことはペテロにとって、
関係のないことでした。だから、イエス様は「それが

あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに
従って来なさい」と言明されたのです。

私たちも、はっきり言って、ペテロのように他人に預けたような
信仰ではいけません。イエス様を

「信じる」ということは、「自分の決断で信じた」ことであって、他人に助けて貰う前提で信じたの

ではありません。まして、「他人が信じたから、自分も信じた」というものでもありません。あくま

でも、自分が「信じたい」と思って自分の意志で信じたことですから、どこまでも信じた御方に対して

真実であるべきです。そして、信じ続け、どこまでも従うべきです。信じた自分にドボンと浸かって、

信じ切って従っていくのが、信じた者の生き方です。それなのに、イエス様を信じる心を曖昧に

して、自分の
意思をはっきりと表わさないのは、イエス様の父である「全能主を絶対として、信じて

いくこと」
にも曖昧に
なります。そして、この甘えは信じていく事への確信を失わせ、自分の肉の

感情を先立たせることになります。しかし、「信じる」とは、どんなことがあろうと「イエス様

を愛します」とはっきり言って、信じた御方の考え方に素直に従うことが「信じる」ことです。


そして、イエス様の父である「全能主に主権を明け渡し」
「自分が主導権を握るのではなく」

「信じた御方に自分を委ね」
「全能主を絶対的な御方として信頼し」
「全能主が義とされること

を第一として求め」
「自分の肉的な考えと霊的な考えを分けて」大胆に「私はイエス様を愛し

ます」
とはっきり言い切っていくものです。



(転)では、ペテロが自分の信仰を、はぐらかせた原因はどこにあったのでしょうか。それは、

自分自身の肉と霊を分けていなかったからです。ペテロは、「たとえ人がつまずいても、私は

あなたにつまずきま
せん」と言ったにも拘わらず、イエス様を「知らない」と3回も言い切って、

激しく落ち込みました。そして、「私は、あなたを愛しますと、言えるような人間ではない」という

気持ちに捕われてしまった
のです。このように、私たちも自分の信仰が肉的な心に捕らえられて

しまうと、霊的な自信まで失ってしまい
ます。そして、「はっきりと自分の信仰を表わすことの

出来ない弱い人間だ」という思いに(とら)われるのです。
それは、肉と霊をごちゃ混ぜにして考えている

からです。
だから、私たちは肉と霊をはっきり分けなければ
なりません。確かに、私たちの肉は

いつも失敗します。そして、ペテロのような卑怯な部分、弱い部分、醜い部分を持っているので、

信仰の確信を失うのです。しかし、その肉の部分は全てイエス様の贖いに
よって解決されている

のです。
肉と霊を区別するというのは、肉の贖いが完全に成されている自分を見ることです。しかし、

このことを区別しないと、肉的な失敗をした時に、自分の信仰の駄目さ加減に(とら)われ、自分自身

の信仰もダメだと思ってしまうのです。すると、益々(ますます)「イエス様の贖いがある」という部分に

立て
なくなってしまいます。だから、私たちは肉と霊を常に分けるように、考え方を改めるべきです。

たとえ肉の弱さで失敗をしても、その肉はイエス様によって贖われているので、私たちはイエス様に心

を向け続けて
行って良い訳です。ところが、それが如何にもいけない事のように私たちの心に語り

かけてくるのが悪魔です。その悪魔は、「肉に囚われているような者が、全能主を信じていると

言えるのか?」と(たた)み込んできます。しかし、この悪魔の声に騙されてはいけません。イエス様

も、宣教を始める前に悪魔の試みを
受けられ、「お前が全能主の子であるならば、石をパンにしてみ

なさい」と誘惑されました。しかし、イエス
様は、40日間断食して、空腹で耐えられない状態に

置かれていたのですが、はっきりと、「悪魔には
従わない」という意志を表わし、霊と肉の判断

を曖昧にされませんでした。ですから、霊と肉をはっきりと
分けておられたイエス様は、悪魔に負

けることなく、3回の試みにも、はっきりと全能主の側に立つという
姿勢を示されたのです。だから、

「人はパンだけで生きるものではない。全能主の口から出る一つ一つ
の言で生きる」と、はっきり

と言われて、悪魔を退けました。このイエス様の霊と肉を分けてこられた姿勢が、
私たちに対する模範

です。


(結)ですから、私たちも肉と霊を分けて行って良いのです。どうか、この確信を持って下さい。

イエス
様は、マリヤを通して私たちと同じ罪深い肉を担い、私たちの肉の罪を贖って下さったの

です。即ち、私たちは、肉の部分に対する赦しを受けているのです。逆に、もし私たちの肉の

部分に対する贖いがなかったら、私たちに救いはないし、誰一人として、「全能主を第一にし、

イエス様を愛して行きます」
なんてことは、言えませんしかし、私たちには、肉の部分に対する

イエス様の贖いが、はっきりとあるから
こそ、こんな自分でもイエス様に近付(ちかづ)いて、「私はあなたを

愛します」と従って行くことが出来るし、また、どこまでも全能主を見上げて信じ続けて行く

ことが出来るのです。
どうか、この肉と霊をきちんと区別して、自分自身の信仰をはっきりと

表し、全能主に従い通して行こうではありませんか。


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室