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2021年8月22日


全能主は正しい。イエス様は正しい。聖書は正しい。

ヨハネの福音書15:1~17

(起)ヨハネ15章の「ぶどうの木のたとえ」から、「全能主は正しい。イエス様は正しい。聖書は

正しい。」だから、いくら世から非難されようが、全能主の義を第一に求め、「主により頼んで、

自分は
この道に行く」と決めて、ミュラーさんのように、本気でその道を歩み出すことを学んで行きたいと

思います。


(承)
さて、この(たと)えでイエス様が私たちに語っておられることは、一口に言うと「実を結ぶ者に

なりなさい」
ということです。しかし、その実は地上で消え去るような実ではなく、永遠に残る霊的

な実です
イエス様は、そのために私たちを選び、任命したと言われました。(16節)それは

どういうことかと申し
ますと、私たちは、元々罪人として捨てられて、掻き集められて、焼かれて

終わってしまう枝でした。ところが、全能主が、そんな半分死にかけている枝を、イエス様の幹に

()ないで下さった御蔭(おかげ)で、私たちは生きる枝になり、実を結ぶことができるようにされました。

だから、私たちは今、自分が信じているか、信じて
いないか分からないような信仰であってはいけま

せん。イエス様の木に()ながれた枝として、イエス様の枝となり、イエス様にあって生き、イエス様

の喜ばれる、永遠に(つな)がる実を結ぶクリスチャンでなければならないのです。



(転)では、その「永遠に残る実」とは、具体的にどのような実のことを言うのでしょうか。それは、

「全能
主は正しい」「イエス様は正しい」「聖書は正しい」と信じて、全能主の言う通り、イエス様

の言う通り、聖書に書いてある通りに生きて行くことです。
即ち、今まで生きて来たこの世の常識、

この世の見方、
この世の考え方ではなく、「全能主は正しい」「イエス様は正しい」「聖書は正しい」

という所に立った物の
見方、考え方をして行くことです。例えば、ヨハネの福音書を読んで行くと、

霊的な立場から語られた
イエス様の言葉を、なかなか理解しようとしないユダヤ人たちの姿が記され

ています。そのような箇所を読む時、「もっとユダヤ人たちに分かるように話して下されば、私たち

にもイエス様の言葉が理解されるのに」と考えてしまいます。しかし、そうした世的な知識で理解

しようとして読むのは間違っています。なぜなら、イエス様は天的な話をしておられるからです。

私たちは信じた者として、地上の御利益を求めて行くのではなく天に迎えて頂く救いに預かっている

のですから、イエス様が天の感性で話しているのを理解しようとして読むべきです。
ですから、初め

から「イエス様は正しい」という観点に立って、イエス様が何を
言おうとされているのかと考えれば、

イエス様は父から遣わされて、信じた者を天に迎えようとして語っていることが分かってきます。

それならば、私たちも同じ土俵の上に立たなければ、話は()()いません。私たちが天に召された者

として「イエス様がこのように忠告されるのは、当然だろー。そのことを理解しようとしないユダヤ人たち

の方が悪い」と読んで行けるはずです。私たちは、イエス様を信じ、全能主を信じた
のですから、

「全能主は正しい」、「イエス様は正しい」、「聖書は正しい」という所に、常に当たり前の事
として

考え、生きて行くべきです。
そして、もし私たちがそこに立つならば、ミュラーさんのような生き方

を始め出すでしょう。ミュラーさんは、聖書に「孤児の父は全能主」と記されていた事によって、

「全能主が孤児を養って下さる、また、その必要も孤児の父が満たして下さり、子供たちを活かし、

養い、育てて下さる」と信じ、その通りに始め出しました。すると、本当に孤児達の必要が満たされ、

聖書が正しいということが分かって来たのです。即ち、ミュラーさんは、自分で働いて資金を集めた

り、人の献金を当て
にしたり、お願い行脚(あんぎゃ)して、地上的な人間の温情を求めて、金集めをしな

かったのです。どこまでも孤児の父である全能主に祈り、「孤児たちの必要を満たして下さい。御言葉

通り、孤児たちに食べる物を
与えて下さい」と、全面的に全能主に頼り、信じて孤児を養って行ったの

です。すると、本当に全能主が必要を満たして下さり、実を実らせて下さったことを、ミュラーさん

は味わって行きました。それは自分で
結んだ実ではなく、全能主が結ばせて下さった実です。ですから、

その実は永遠に残ります。そのような
実こそが、イエス様が言われた永遠に残る実を結ぶことなのです。

だから、その後でイエス様は、「あなた方が、わたしの名によって父に求めるものは、何でも父が

あなた方に与えて下さる」
と言われたのです。このように、ミュラーさんは、イエス様の名によって

全能主に求め、与えられて行った人です。ですから、イエス様は、そのように私たちを選び、任命して

下さったのですから、私たちもミュラーさんのような生き
方を始め出すべきです。それを始め出せば、

全能主は私たちが求めている以上のことをして下さり、
全能主が実を結ばせて下さるのを体験する

でしょう。なぜなら、イエス様が「よくよく、あなた方に言って
おきます。わたしを信じる者は、

わたしの行うわざを行ない、またそればかりか、更に大きなわざを行い
ます。わたしが父の許に行く

からです。」
と言われたからです。



(結)
それなら、私たちもこの霊的な生き方をしようではありませんか。もし、私たちがこの願いを持つ

なら、
普段の生活も、この地上のルールの常識に捕らわれず、全能主に望みを置き、霊と肉の二股(ふたまた)掛けた

生き方は止めましょう。この両刀(りょうとう)使いは、全能主を信じる者の生き方ではありません。又、イエス様の

言葉を信じる者の生き方ではありません。本当に信じると決めたのなら、今、信じる生き方を始めま

しょう。
どこまでいっても、「全能主は正しい」、「イエス様は正しい」、「聖書は正しい」のですから、

「全能主の言う
通り、イエス様の言う通り、聖書に書いてある通り」にしますと決断し、始め出そう

ではありませんか。
もし、それを本気で始め出せば、この世の人々からは、理解されることはないで

しょう(15:18)。なぜなら、考えている次元が違うからです。この生き方は、この世の人たち

には理解できない事柄です。でも、
私たちはもうこの世のものではありませんし、この世から選び出

されて、イエス様に()がれた者です。ならば、二股(ふたまた)掛けて、どっちつかずの卑怯な生き方から、

さよならして、はっきりと信じた生き方をして行こうではありませんか。どうか、「全能主は正しい。

イエス様は正しい。聖書は正しい。だから、いくら世から非難されようが、憎まれようが、勇気を

出して自分はこの道に行く」と決めて、ミュラーさんのように、本気でその道を歩み出しましょう。



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