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2021年8月15日

一旦心の中に落とし、霊的に考える

ヨハネの福音書8:31~59、9:1~38


(起)ヨハネ8章と9章の「(よこしま)な心で信じたユダヤ人」と「(いや)された盲人」を比較しながら、

頭で思ったことを、
一旦心の中に落として霊的に考える習慣を身に付け、霊的な考え方が、私たちの心

の中に根を下ろし、実践して行くこと」
を学んで行きたいと思います。



(承)さて、ここでイエス様は「
信じたユダヤ人たちに言われた」とありますが、そのユダヤ人たち

とは、イエス様からパンと
魚で満腹させられた人たちのことです。彼らは、モーセが荒野で天からマナを

与えたように、イエス様も更に大いなるしるしを
して下さると思い、御利益を求めて集まって来ました。

しかし、イエス様はそのことを見抜いて「わたしの言葉が、あなた方の
内に根を下ろしていない」と非難

されたのです。すると、彼らは8章53節で「あなたは、いったい自分を何者だと思って
いるのですか」

と反旗を(ひるがえ)し、イエス様を人間的な目で見て去って行きました。それは、彼らの内に14章16節に

記されて
いる「信じる者に留まる内住の御霊」が与えられておらず、彼らが本当の意味でイエス様を信じて

いなかったことの証拠でした。いったい、彼らの問題はどこにあったのでしょうか?それは、彼らの関

心がどこまでも地上的で、「イエス様を永遠の命を与える御方」として見ることをせず、ただ地上的な

御利益を求めていたからです。
しかし、イエス様は、ご自分を全能
主から遣わされた人の子として

語っておられましたので、
イエス様の話を理解するには、「少し見方を変えて、地上的な先入観を

横に置き、霊的な心でイエス様が語っておられる論理を聞いてみよう」
という意識を持って聞く必要性

がありました。
ところが、彼らはどこまでも地上的な見方で、「私たちの父はアブラハムです。

あなたは、私たちの父アブラハムより
ずっと偉大なのですか」と言い、その果てには「あなたが悪霊に

取り憑かれていることが、今分かりました」とまで言い切って
しまったのです。だから、当時のユダヤ人

たちにとって「信じる」というのは、どこまでも地上的な感覚だった
ということです。しかしなが

ら、イエス様は常に霊的な立場で、地上のレベルを超えたことを語っておられました。ですから、

そこにズレがあったのです。


(転)では、私たちはどうでしょうか?私たちも聖書を読む時、地上的な先入観をもって、読んでいない

でしょうか?聖書は、
罪人の救いの奥義が()められた全能主の言葉です。ですから、地上的な見方

を横に置き、信じた者の内に内住される御霊の声を聞きつつ「イエス様が語っておられる論理を聞い

てみよう」
という意識を持って読む必要があります。なぜなら、イエス様は常に霊的な立場で、地上

のレベルを超えたことを語っておられるからです。
そこで、私たちは聖書を理解するために、次に

出てくる盲人の言葉に耳を傾けるべきです
。この盲人は、イエス様から癒された後、イエス様を信じる

ことに反対していたパリサイ人たちから「どのようにして見えるようになったのか」、「本当にお前は、

生れつき盲人だったのか」としつこく尋問され、イエス様による癒やしに圧力を掛けられました。

そして、パリサイ人は、盲人に向かって「全能主に栄光を帰し
なさい。あの人が罪人であることは、

私たちには分かっている」と言って、(おど)しを掛けたのです。はっきり言って、パリサイ人たちはイエス様

を非難していたので、そのことは盲人も充分、分かっていました。ですから、彼は「ここでパリサイ人

の考え方に合わせなければ、自分は会堂から追放され、ユダヤ人社会から追い出されてしまう」という

恐怖心はあったはずです。ところが、盲人は、「あの方が罪人であるかどうか、私には分かりません。

ただ一つのことだけは分かります。私は盲人であったのに、今は見えるということです」
と答え、

「私の目はイエス様によって奇蹟的に癒されたのです」と、はっきりと証言したのです。すると、

パリサイ人たちは、盲人の言葉に腹を立て「お前はあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。

私たちは、モーセに全能主が語られたことを知っている。だが、あの者については、どこから来たの

か誰も知らないのだ」
と脅しをかけました。ところが、盲人は、「全能主は罪人の言うことはお聞きに

なりません。私は、生れつき盲人であった者の目を開けた人がいるとは、世界が始まって以来、聞いた

ことがありません。もし、全能主から来た人でなかったら、あの方は
何一つできなかったはずです」

と言い切ったのです。即ち、「こんな事ができるのは、全能主がさせておられるとしか考えられないの

ですから、この方は絶対に悪い方ではない
」という霊的な見方をしたのです。この盲人の物の見方、

この考え
方は、先程お話しした「(よこしま)な心で信じたユダヤ人たち」や、「パリサイ人たち」とは全く

違います。盲人は、ユダヤ教の律法や全能主のことを専門的に学んでいた人ではありません。

それなのに、こういう見方ができたということは、霊的な
理解力は、頭の良し悪しや、知識が有る

無しには関係なかったのです。
彼自身の心の中から出てくる霊的な本音が言葉となって表れ、たとえ

ユダヤ人社会から追放されても、自分の身の上で起ったことは、世界が始まって以来、聞いたことが

ない。だから、「もし、全能主から来た人でなかったら、あの方は何一つ出来なかったはずだ」と言い

切れたのです。この
確信が、「たとえ、この世で()き場を失っても、この御方は正しい」という

生き方をしようとした、彼の本心から出た行動で
す。こんな強さが盲人にあったとは驚きです。

ならば、私たちも、この霊的な見方がいつもできなければなりません。私たちも「地上のことはどう

でもいい」
と思える、そういう生き方を、自分のものにして行くべきです。たとえ、地上でお金儲け

の仕事をしていたとしても、クリスチャンなら、「お金に捕らわれない生き方をすべきです」それは、

お金儲けの仕事をしてはいけないということではありません。ただし、「決して心は地上に捕らわれ

ない生き方をして行くべきだ」と言うことです。そのためには、頭で聞いたこと、頭で思ったことを

一旦心の中に落として霊的に考える
必要があります
それ
をすると、私たちの心には御霊様がおられ

ますので、自分がどのように答え、どのように考え、どのように行動をすべきかが見えてきます。それを、

この盲人は瞬時にやったということです。


(結)
どうか、これを私たちの日々、時々の生き方にしましょう。多くの人は、「心で考える」という

ことをやっておらず、
頭で聞いたことを頭で考えて、自分が損をしないように、頭で考えた受け答え

をしています。でも、私たちはもう地上の者ではありませんので、地上のことはどうでもいいのです。

いくら馬鹿にされようが、非難されようが、怒られようが、頭で判断
してはいけません。私たちは、

人の言葉を瞬時に心の中に入れ、心の中から出てくる霊の反応で生きて行くのです。
即ち、この盲人のような

生き方をして行くのです。彼は、学んでこういう言い方をしたのではなく、心の中の霊的な真実な気持ちで

答えただけです。それなら、私たちにもできる筈です。特にクリスチャンならば、心の中に助け主、

即ち、内住の御霊様が
おられますので、聞いたことを、
一旦心の中に落として霊的に考える事が出来ます

しかし現実には、クリスチャンの多くが、
当たり前のように「(よこしま)な心で信じたユダヤ人たち」のように、

内住の御霊を与えられながら、御利益から離れず、肉の心のままで判断して生きています。その結果、

どれだけのクリスチャンが、キリストから離れ去って行ったことでしょうか。それは、どこまでも地上

的な信仰であったからです。しかし、私たちは、聖書的な霊の物の見方、考え方をするクリスチャン

として、頭で考えたことを、一旦心の中に落として霊的に考える習慣を身に付けましょうそして、

それを私たちの心の中に根を下ろし、実践して行こうではありませんか。



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