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2021年8月1日

最後まで信じ通す

ヨハネの福音書4:46~54

(起)ヨハネの福音書の「ヘロデの役人の息子の癒し」の記事から、「全能主に選ばれた者として

『全能主に()ける心』を定め、
最後まで信じ通すこと」を学んで行きたいと思います。


(承)
さて、イエス様がガリラヤのカナへ行かれると、カペナウムに住んでいたヘロデの役人が来て、

「息子の
病を癒して下さい」と、イエス様に懇願(こんがん)しました。ところが、イエス様は彼の家には行こう

とはされず、言葉
だけで
「帰りなさい。あなたの息子は癒されています」とだけ言われたのです。

なぜ、こんな素っ気(そ け)なく帰されたのでしょうか。それは、彼がユダヤ人では無かったからです。

彼が住んでいたカペナウムは、ガリラヤの
異邦人の地でした(マタイ4:15)。当時、ユダヤ人は

律法の戒めによって、異邦人との付き合いを避けていましたので、エドム人であったヘロデは、

ユダヤ人の王として認められておらず、嫌われ者であったのです。
そんなヘロデの役人であった彼は、

イエス様から「帰りなさい」と言われたら、「あなたは異邦人で、しかもヘロデ
の役人だから、わたしと

あなたとは関係ありません」と言われたと思い、諦めてしまっていたかもしれません。
ところが、


彼はイエスの言葉を信じて帰って行った
とあります。このように謙遜に信じ、イエス様に懸ける心を

持った彼は、カナからカペナウムの家に帰って行く途中で、息子の癒やしを知らされたのです。

この時、彼が主の言葉を信じる事が出来たのは、自分の主権から出たことではありません。それは、

聖書に「御霊によらな
ければ、イエスを主と告白することは出来ません」という御言葉があるように、

彼は御霊の助けを受け、イエス様を
信じることの出来た「全能主に選ばれた人」だったからです

この事は、私たち異邦人であるクリスチャンにも言えることです
私たちも主の選びが無ければ、

信じることの出来なかった者でした。それなのに、如何
にも、自分の主権で信じたと思っている多く

のクリスチャンがいますが、現実は、全能主の御霊の働きがあったことを
知らないでいるのです。

聖書には
「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選んだのです。」(ヨハ15:16)

とあるように、私たちは選ばれていたので、信じることが出来たのです
。そして、ヘロデの役人は、彼自身

だけではなく、彼の家族もイエス様を信じて救われています。そして、聖書の他の箇所には、
彼の

名前
と、彼の妻の名前が記されている所があります。ルカ8章3節を見ますと、ヘロデの執事クーザ

妻ヨハンナとスザンナ、その他多くの婦人たちも一緒にいた。彼女たちは、自分たちの持ち物をもって

一行に奉仕し続けた」
とあります。役人の妻ヨハンナは、自分の息子がイエス様によって病が癒や

されたことを夫の言葉によって信じて、その後イエス様の一行に加わり、自分たちの持ち物を持って

奉仕したとあります。
そのことは、ヨハネ15章16節に
「わたしが、あなた方を任命しました。

それは、あなた方が行って実を結び、その
実がいつまでも残るためです。」という御言葉が実現したこと

です。また、主の復活の朝、
ルカ24章10節には「この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ…」

とあります。彼女は、イエス様を信じた後、ずっとイエス様と共に歩み、十字架の時も、復活の時も、その場

にいたということです。
なんと彼女たちは、全能主に選ばれた者として、「全能主に()ける心」を定め、

最後まで信じ通すことをした女達だったことでしょう。
イエス様が十字架に架けられたその場には弟子

たちは逃げ出しており、いなかったのです。ところが、彼女たちは、その場に
いたとは驚きです

こうして、彼女たちは十字架の時も、イエス様の(かたわ)らを離れずにいた女たちでした。こんな心を持った

クリスチャンが、天に上げられない訳がありません。
彼女たちも皆、全能主に選ばれていた人たち

だったからです。
このように、全能主から選ばれた人は、最後の最後まで信じ通して行くのです。


(転)では、私たちはどうでしょうか。実は、私たちも全能主に選ばれた者の一人です。私たちが

イエス様を
信じることが出来たのも、また、ここまで信じて来られたのも、御霊の働きがあっての

故です。
本来、私たちは自分勝手な人間ですから、糸の切れた凧のように、とっくに、どこかに飛んで

行ってしまってもおかしくはありません。実際、私たちはいろいろな経験を通して振るわれて来ました。

その中で、牧師が、どれだけ心を掛けた
者たちであっても、去る時は簡単に去って行くものです。

だから、私たちがここまで信じ続けて来られたのは、決して自分の力ではありません。確かに、危険な時

もあったかもしれませんが、
ずっと御霊に守られてきたのです。それは、全能主の選びと召しがあった

からです。
全能主が私たちを選んで下さり、心をかけて下さったが故に、今ここに留まっているのです。

だから、
最終的に振り返ってみると、「あの時もこの時も、全能主に助けられたからこそ、ここまで

来られたのだ。結局は自分の主権ではなく、全能主が全て動かしておられたのだ」
ということが見え

てくる筈です
それが分かったなら、私たちは「全能主に懸けて行こう」と心を定めて行くべき

しょう。
それは即ち、どこまでも信じ続けるということです。「信じる」とは、ただ心の中で「信じます」

と言うだけ
ではなく
信じているという証しが伴うものです。その証しは何かと申しますと、自分よりも

全能主を大切にし、自分の考えよりも全能主の考えを優先するということです。

即ち、「自己否定」の証が伴うのです。ヘロデ王の役人クーザは、イエス様からそっけない態度を取ら

れ、腹を立てて帰って行く事も十分あり得たでしょう。しかし、
彼は主の言葉を素直に信じて、言われた

通り帰って行きました。
ですから、私たちも、本気で全能主を信じ通そうではありませんか

選ばれた者は、クーザヨハンナスザンナのように、最後まで信じ続けて行くのです。どうせ最後

まで従って行くのなら、
私たちは「勝利を得る者」として、信じ続けていきたいと思いませんか。

「勝利を得る者」はどこに入るのでしょうか。それは、「聖なる都エルサレム」です
。そこには()(はい)

出来ない者
もいる中で、「私たちは選ばれた者」として、特別な幸いに(あずか)るチャンスが与えられている

のです。それならば、この命は、その為だけにあれば()い命です。私たちは、その意識を持って

信じ通すのです。


(結)この世では色々な問題が目の前にやって来ます。しかし、それらは全て肉の問題ですから、割り切って

行けば良いのです。その時、悪魔は私たちの自我に働いて揺さぶってきますが、「自分が目指すのは

聖なる都だ
」と、はっきり意識して、悪魔の声を跳ね除けるのです。即ち
「自我を砕き自己否定を

して」
、全能主の考えに立つことです。この経験を、これから幾つも積み重ねて行きましょう。そして、

全能主に選ばれた者として、
「全能主に懸ける」と心を定め、最後まで信じ通そう
ではありませんか。



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