教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2021年7月25日

全能主に対する従属の心を(つか)んで

第Ⅰコリント15:20~28

(起)第Ⅰコリント15章の復活について記されている箇所から、「自我を跳ね()、全能主に対する

従属の
心を掴んで、全能主にまっしぐらに仕えて行く者となり、天において全能主の(ふところ)に迎えて頂ける者

となることを学んで行きたいと思います。



(承)
さて、今日(きょう)お読みした所は、クリスチャンの復活の事について記された聖書の箇所ですが、

20節からは、
復活の順番について出て来ます。その順番によれば、「キリストは最初に死者の中から

甦り、眠っている者たちの初穂となられた。」とあります。この眠っている者の初穂とは、キリスト

が眠っていた聖徒たちに先立って初穂として
甦られましたので、眠っている旧約の聖徒たちを始め、

新約の全ての聖徒たちを眠りから覚まし、(よみがえ)らせようとしておられるということです。聖徒が、

その眠りから覚まされる時は、キリストが天から下って来られる時です。即ち
「終わりのラッパの響き

と共に(まばた)きする瞬間(しゅんかん)に、空中で御霊の身体を貰う時」
です。それは、第Ⅰテサロニケ4章16節に

記されているように、「主は、主御自身の号令と、御使いの頭の声と、全能主のラッパの響きによって、天から

下って来られ、キリストにあって死んだ人々が最初に甦る」とあります。また続けて「生き残って

いる人々が、彼ら
(眠っていた聖徒)と共に雲に包まれ、空中に引き上げられ、変えられるのです。」と

あります。即ち、聖徒は旧約時代、新約時代の区別が無く、皆が空中で眠りから覚めるのです。これが、

「主の再臨の時にキリストに属している者たちの
復活する順序です。」(15:23)
そして、聖徒の

復活に続いて、キリストによる世の裁きがなされ、その後で患難
時代の殉教者は、地上の千年王国

に、王となって入ります。この時、彼らは地上で王となりますので、「清められた
肉体」で復活する

のです。(この王となる人々は、黙示録20:49に生き返って)とありますから、復活した御霊の


身体ではなく、千年王国に降りてくる肉体の体として生き返るのです
。しかし、千年が終わった後に

は、全能主の
御国に入りますので、その時には「御霊の身体」に変えられます。これが、私たちの

御国に入っていく順序です。
キリストの再臨の後には「天の御国」が存在していますが、「聖なる都エル

サレム」は白き御座の審判が終わった後で
実現し、その時には、皆が御霊の身体を貰って、約束の永遠の

命に入るのです。しかし、皆が聖なる都エルサレムに入るのではなく、星々に栄光の差がありますように、

御霊の身体も、天上の形に差があります、それは、「聖なる都の
中に住む者」と、「聖なる都の外に住む者」

がいるということです。コリント15:39~41を見ますと、「すべての肉が、
同じ肉ではありま

せん。あるものは人間の肉であり、また、あるものは獣の肉であり、鳥の肉であり、魚の肉です。

それと同じように、天の栄光は、それぞれ異なっており、栄光の差があります」とあるように、私たち

も、天上での
栄光の差があります。それなら、聖なる都に入れて頂く栄光に預かるために、この地上の

残りの生涯を「勝利を得る者」として全能主の御心に適った信仰を身に付けて、「聖なる都に入れて

頂く者」とされたいのです。ということは、
「この命は、その為だけにあれば()い命です」という

ことは、「私たちは全能主に在って腹を決め、残りの生涯を
全能主のためだけに生きる命だ」と割り

切っていくべきです。



(転)そこで、私たちが復活して、「聖なる都に入れて頂き、全能主の懐の近くで生きる」その特別な

栄光に(あず)かるためには、この地上で私たちが身に付けておかなければならないものがあります

それは何かと言いますと、コリント13章にヒントがあります。13章には「愛」について記されて

いますが、道徳的に非常にレベルの高い内容であり、
ここに書いてあることは、罪人の人間が完璧に

守れるようなものではありません。しかし、この箇所は「完璧な人間にならなければならない」と

律法的に捉えて読むところではありません。なぜなら、キリストが律法を廃棄されているから
です。

ですから、クリスチャンがこの愛の書を霊的に捉えて読んだ時、何を身につけて行くべきかと言い

ますと、
それは「自己否定の精神」です。即ち、今まで私たちがずっと学んできたように、「遜り、

悔いし砕かれた心を持って
行く」ということは、罪人が身につけて行くべき「自己否定の精神」なのです

それは、キリストも父なる全能主に対して、
完全に自己否定の精神をもって従属されて行きました。

そのことは、ヨハネの福音書を見れば明白です。ですから、
私たちが全能主に従う心は、「自己否定

の精神を持った完全従属」
です。13章に記されている「妬み、自慢、
高慢・・・」というのは、全て人間の

自我です。私たちは、その自我を()()けて全能主の前に砕かれた心を持って聞き従う、自己否定が

必要です
。それは、言葉を替えると「従属」です。自我というものは、私たちが生きている以上、無くなる

ことはありません。しかし、無くならずとも、それが出て来た瞬間に、勇気を持って()()けることは

出来ます。
これは、地上でも上位に立つ者への従属の生き方は、全能主が願っておられる重要な点です

ところが、この「従属の精神」に立つことをさせないように邪魔をするのが悪魔です。なぜなら、

悪魔は「それは奴隷となることと
同じで、恰好(かっこう)が悪いぞ。人間として生まれた以上、自由人として

の思い通りに生きて栄光を現さなければ、意味が無い。」と、(ささや)いて来ます
。それは、悪魔こそが

全能主に逆らって自分の栄光を現そうとした張本人だからです。
ですから、この(ささや)きを()()けて、

自我を砕き、下手に出るのです。それが天に繋がる秘訣です。私たちは、この地上の王に従うのでは

ありません。私たちはこの命を創造された、全能主に従うのですから従属の精神は正しいのです。

それを否定する聖書の箇所は一つもありません。この地上の王に従属することも正しいことですが、

人間
ですから間違いもあります。しかし、天の父に従う従属には、間違いがありません。全能主は全ての被造

物の上に立つ
絶対的なお方です。ですから、むしろ、それこそが、人間が人間として持つべき本来の

姿なのです。このように、
私たちは、「従属こそ、全能主の懐の近くに迎えて頂くために、身につけて

置かなければならない重要な要素です。
だから、全能主が立てられた地上の権威に逆らう自我も

()()け、従属の精神を身に付けて行くべき」
です。この事を一度でも行うと、「これで良い

のだ」ということが分かり、その経験を繰り返して行けば、それが自分にとって
当たり前の心となって

身に付いて行くでしょう。すると、その心を持った人は、全能主が喜ばれ、天においても全能主の

懐で、好意を持って交わりをさせて頂けるのです。



(結)
こういう訳ですから、私たちはこの地上にいる間に、この「従属の精神」を学んで行きましょう。

この従属の
精神は、ただ知識として自分の頭に入れるのではなく、自分自身で経験しなければなりま

せん。全能主は、一人
一人が勇気を出して、自我を砕いて()()け、全能主に従属して行く心を養い、

それを最後まで貫いて行くかどうかを見ておられます。
これがクリスチャンの目指す生き方です。

どうか、自我を()()ける従属の心を掴んで全能主にまっしぐらに仕えて行く者となりましょう。

そして、天において全能主の懐に迎えて頂ける者となろうでは
ありませんか。



 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室