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2021年7月18日

義務感ではなく、女が男に従属(じゅうぞく)する真理

第Ⅰコリント11:3~16


(起)第Ⅰコリント11章3~16節から、女性の(かぶ)り物について考え「聖書を信じるなら、聖書に書い

てあることをそのまま信じ、義務感では無く、女が男に従属する真理を本気で表わして行くために、(かぶ)り物

をすること」について学んで
行きたいと思います。



(承)さて、ここでパウロは、「女性が全能主に向かって祈りをしたり、預言をしたりする時は、頭に(おお)いを

着けなさい」(コリ
ント11:5)
と勧めています。それは何故かと言いますと、「全能主は創造の目的

に従って秩序を重んじられる方であり、
女性が全能主の創造の目的に従って歩むことを願っておられる

からです。
」それは、全能主が人を造られたときに、「全能主は自分の像に(かたち)アダムを創造された」(創1:27)、

とあり、そして「女を男の助け手として、男のために造られた」
(創2:18、コリント11:9)とあり

ます。こうして、男は全能主が直接創造されましたので、男には全能主の栄光がありましたが(コリント

11:7)女は男の助け手として男の肋骨(あばらぼね)を取って、一人の女を造り上げられた為(創2:22、

コリント11:8)、女は、男の身体(からだ)の一部から取られ、全能主が女を直接創られなかったので、女には

全能主の栄光はありま
せんでした。ですから、男と女の秩序は、男は直接全能主によって創られ、全能主

の栄光と形を持っていますが、それと同じようには、女には与えられていなかったということです


しかし女には、「男に属する栄光がありました」(コリント11:7)しかし
女の持つ栄光は、

男に属する助け手の栄光
でしたので、その栄光を隠すことによって、女の立場を全能主と天から見て

いる
御使いに、頭の上に持つ権威を覆うことの義務があったのです。これを全能主の意向として、パウロ

さんが
女性の(かぶ)り物について解き明かしたのです。ですから、女が男と対等であると思うことは、

間違っているのです。
しかし
今日(こんにち)の日本を始め、民主主義と言われる国々では、男と女を対等の立場

(とら)えて教育しています。しかし、聖書は、女は男に服従する立場として記しています。ですから、

今日(こんにち)の教育理念(りねん)とは全く正反対の記述です。それでも、聖書には「女が(おお)いを付けずに、全能主に

祈るのは、ふさわしいことでしょうか」(コリント11:13)
と明確に記されている以上、この御言葉

を無視することは出来ません。今日(こんにち)の日本の教育が男女平等を標榜(ひょうぼう)していても、クリスチャンは世に

合わせていくべきではありません。「あなた方は、世と調子を合わせては()りません。」(新改訳ロマ

12:2)
とあり、また「全能主の言葉はとこしえに変わることはない」(第Ⅰペテロ1:25)とある

以上、クリスチャンは御言葉に対して、義務感からではなく、心から信仰によって従うべきです。

それは、今日(こんにち)の社会が封建(ほうけん)制度ではなく、また、この世の人々や、他の教会が批判しようが、

「女が男から造られ、男の為に造られた」(コリント11:8~9)
以上、女を男の助け手として造ら

れたのは、全能主であり、創造の
秩序として、そのようになさったのですから、クリスチャンなら、

聖書の主張に従うのは当然です。ですから、女は、その
ことを自覚し、権威に服しているということ

を現すために(かぶ)り物を(かぶ)るべきです。ところが、この聖書の教えをクリスチャンでも受け()めるのは、

なかなか難しいのが現実です。
何故なら、今日(こんにち)の教えでは「女は男に従属するもので、女は男のため

に造られた」
という真理を理解出来ないからです。だから、このような感覚が、クリスチャンの内に、

全くと言っていい
ほどありません。むしろ、ここまではっきり「女は男のために造られた」「女は助け手

だ」と言われると、「それは嫌です。私は同意できません」という気持ちが働くのです。そのため、多くの

教会では「(かぶ)り物の件は当時の習慣のことで、今日(こんにち)の教会に適用する必要が無い」と言い切り、聖書の

主張よりも人間の考えを正しいとしているのです。即ち、全能主の考えに対して、
拒否する心を、クリス

チャンも持っているということです。
この心が大きな問題です。これは全ての聖書の教えに繋がって

行くからです。
しかし、この(かぶ)り物の教えに、拒否する心を持ちながら、義務感で(おお)いを(かぶ)っても、

それは何の意味もありませんし、
全能主も好感を持たれません。問題は、信仰によって心から従う心

を持っているか、どうかの問題です。



(転)
この問題点は、私たちが罪を指摘された場合でも同じです。罪を指摘された時、「何で?どうして?」

という弁解の気持ちが
働いて、言われていることを素直に受け入れようとしないことがあります。

その反発する心を持ちながら、形だけで「ごめんなさい」と謝っても、全能主の前に何の意味もあり

ませんし、また赦しもありません。なぜなら、自分自身の心が、そうだと思っていないのに、ただ形

だけで謝っても、それは偽物だからです。この地上では、形だけでも「ごめんなさい」と言えば赦され

ますが、全能主の前にはそうはいきません。心の中で反抗なしに、弁解もなしに、「確かに言われる

通りです。自分が
悪かったのです」と受け留めたかどうかを、全能主は見られますそれがあって初めて

罪の告白なのです
そして、その時初めて私たちの心は砕かれ、溶かされ、全能主から罪が赦されて、心が

清くされるという感覚を味わうのです
この経験を
どれだけして行くかは、私たちの心次第です。どういう

ことかと申しますと、私たちの心というのは、「自分の主権で自由に生きて行きたい」という思いがある

からです。だから、罪を指摘された時に、それを受け留めることもするし、拒否することもします。また、

拒否する気持ちが出て来ても、それを砕いて、「自分が間違っていました」という世界に入ることも出来ます。

まさに、自分次第です。しかし、
自分の心の中にある反発の気持ちを()()けて「反発するのを

やめよう。弁解するのをやめよう」と、自分の
心に勇気を持って言い切るのです。これは、自分を(かば)わずに、

言われていることをそのまま聞こうとする大切なポイントです。すると、相手が言わんとする真意が理解

できる
ようになります。また「自分が責められるのは当然だ」という事も分かって、素直に「自分が

悪かったのです」と認めることが出来ます。その世界に入った時に、初めて私たちの心が溶かされ

全能主から「それが分かればいい」と言ってもらえるのです。



(結)
こういう訳ですから、私たちは自分の意思で自我を砕いて行く世界に入って行くべきです。

私たちはこの戦いを自分に対してするのです。何故なら、悪魔はそこに一番働くからです。悪魔はいつも

自分を(かば)うように(わな)を仕掛けてきます。自分を(かば)うということは、結局は自分を義として全能主を

否定することです
。それをしてしまったら、私たちは救いを失います。イエス様の贖いによる救いは、

自分は罪人だと認める者にあるのであって、自分を義とする者にはないからです。
どうか、自分自身

の頑なな部分を(かば)おうとする思いは、悪魔の仕掛けた罠だと気付いて下さい。そして、自分でその部分

を砕いて行きましょう。それを一回、二回やると、「これは悪魔の罠だ」とだんだん分かってきます。

すると、言われた
ことを素直に受け留めて行くことが出来るようになり、遜りが身に付いて来るでしょう。

全能主はその者を使いたいと願って
おられます。全能主のお考えに対して、いちいち文句を言って反抗

するような者は、全能主にとって使いづらくて仕方がありません
。だから、全能主は、私たちに賜物

を与える前に、このことを分からせたいのです。どうか、自分の意思で
自我を砕いて、全能主の言わ

れることを素直に受け留め、遜り、従属して行く心を、自分の心として(つか)んで行きましょう。



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