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2021年7月11日

御霊に属する純粋な建物を建てあげていく歩み

第Ⅰコリント3章1~3節、10~17節


(起)御霊に属する者とされた者であっても、肉の性質に属する者の中に留まって、普通の人の

ように生きる生き方から、「御霊に属する者の(きよ)められた心を思い出し」肉の性質に属する自我が

砕かれるために、心の底からの(うめ)きによって祈り、「肉の壁が取り除かれて、御霊に属する純粋な建物

を建て上げていく歩み」
を学んで行きたいと思います。



(承)さて、まず6:11を見ますと、「あなた方は、主イエス・キリストの御名によって、また

私たちの全能主の御霊によって洗われ、(きよ)くされ、義とされたのです
」とあります。まず、コリントの

教会は、聖霊のバプテスマを受け、御霊の賜物を頂いていた教会であったため(第一コリント12:1)

6章11節では、「全能主の御霊によって洗われ、(きよ)くされ、義とされた」教会であると言われて

います。しかしながら、コリント教会の実情は、争いと姦淫と聖餐式の集まりにおいて、とんでも

ない過ちを犯していた教会でした。ですから、「肉の性質に属する者」であり、「ただの普通の人間

のように歩んでいる」
と叱責されていたのです。この厳しい叱責は、他人事では無く、私たちにも

当てはまることです。私たちは、まだ聖霊のバプテスマを受けてはいませんが、御霊によって、信じ

た時
また罪を悔い改めた時などに、「洗われ(きよ)くされ、義とされた」という一面の取り扱いを

受けてい
ます。
しかし、それは長続きせず、完璧なものではありませんでした。なぜなら、「洗われ、(きよ)くされ、

義とされた」という言葉は全てアオリスト形です。ですから、現在の状態の中で完璧に「洗われ、(きよ)くされ、

義とされた」ということを味わうことを表してはいません。たとえ、それが聖霊のバプテスマによって

成されたとしても、それに近い
状態を味わう事はあっても、あくまでも肉を持った者ですから、地上に

あって完璧な人間となる事は絶対にないからです。だから、コリントの教会では、聖霊のバプテスマ

を受け、御霊のいろいろな賜物を頂いていた
にも関わらず、その後で、いろいろな肉の問題が起っていた

のです。ということは、たとえ聖霊のバプテスマを
受けたとしても、聖霊に満たされた状態が常にある

という訳ではありません。元々持っていた肉の性質は必ず出て来ます。同じように「私たちも聖霊の

バプテスマとは全く同じではありませんが、信じた時
などに、聖霊の清めを皆経験しています。

なぜなら、クリスチャンは皆、信じた時に
「キリストの内住の御霊」が入り、その御霊がキリストの

贖いと、罪の赦しと、キリストの血による
(きよ)くされた感覚を与えられているからです。」


しかし、その感覚は長続きはせず、いつの間にか御霊に属する者ではなく、肉の性質に属する者の

ように、
普通の人と変わらない生き方に戻ってしまいました。そして、「肉に属する者のように、すぐに

思い上がって
傲慢になり、負けているにもかかわらず負けていないような顔つきをし、自分のプライド

を見せつけて、人を馬鹿にするような、ただの肉的な人間のように歩んでいました。」そんな生き方

を現実にしているのが私たちです。もし、「内住の御霊」に心を向ければ、素直に負けを認めて、

変な見栄を張らずに、むしろ遜って生きたいと思う筈なのですが、なかなかその世界に入れないで

いるのです。


(転)では、この現状を打破するためには、どうしたら良いのでしょうか。それは、全能主に、こう

祈る事
です。
「自分は信じて御霊に属する者とされましたが、本当に傲慢で、砕きたい肉の性質を砕こう

と思っても砕けない肉が
あります。それを砕こうという気持ちはあるのですが、心は(しら)けているのです。

どうか本心から砕けるように
助けて下さい」
と祈るのです。人間は生まれた時から肉の性質に属する

者です。その肉では、自分の肉を
砕く事は出来ません。だから、人間に出来ない事は、当然全能主に祈る

べきです。
そして、その祈りが、本当にその人
自身の心の底からの(うめ)きなら、全能主は助けて下さいます

すると、今まで(しら)けていた心が、
砕かれて溶かされて、心の底から遜る事が出来ます。また、罪を

犯したなら下手に出て、心の底から謝る事が出来ます。
この時に、「全能主が罪を赦し、きよめて下さった」

という感覚を味わうのです。それは、いつまでも長続きするものではありませんが、一瞬でもきよめられた

経験は味わいます。すると、「自分の建てる建物は、この霊的な
建物を建てて行くべきだ」と思わされ、

肉の性質から離れた建物を建て上げていきたいと、自由意志から
その願いが出て来ます。それが、3章

10~15節に書いてある内容なのです。キリストを土台として、全能主の
御心に適った心で、全能主の為に

建物を建てて行く事が出来れば、素晴らしい生涯となります。それは全能主の
前に受け入れられ、永遠に

続く建物です。ところが、そのような砕かれた中で建てるのではなく、自分の
能力で自分勝手な建物

を建てるなら、それは全能主に受け入れられません。「多くの牧師、伝道師、宣教
師たちは、ある程度の

人間的な能力を持っている人が多くいます。そのような方々が、全能主に聞いて、
全能主の御心に

適った教会を築き上げていくなら幸いです。しかし、その能力を使って、全能主に御心を
聞かず


自分の感で、自分の先走ったビジョンに従って建て上げていくなら
、それが必ずしも全能主の御心に適う

ものとはなりません。勝手に全能主の為にしたのだと、全能主から思われるだけで、自分の『自己満足感』

のために、全能主を利用しただけだと言われてしまいます。ですから、全能主に聞いて建て上げたもの

でなければ、火でもって真価を試される時に、それは焼けて損失を被ります。だから、私たちは上辺

の物に
騙されてはいけません。どこまでも御霊に属する遜った気持ちを持って自分の為のビジョンではなく、

全能主に心を向けた中で建物を建て上げて行くなら、命を頂いた者の生き甲斐ではないでしょうか。

それが、たとえ小さな建物しか建てられなかったとしても、その建物は火で試されても、燃やされず

に残ります。ですから、
御霊に属する者として、
全能主に心を向けた中で建て上げていく生涯こそが、

クリスチャンの本当の願いとなって行くべきでしょう



結)こういう訳で、私たちが建てて行く建物は木、草、わらではありません。むしろ、そんな焼けて

終わるような空しい地上の建物ではなく、御国に繋がる御霊の建物を建てて行くべきです。ですから、

肉の性質に属する自我が
砕かれるよう、心の底からの(うめ)きによって祈り肉の壁が取り除かれて、

御霊に属する歩みを始めましょう。」しかし、問題は、この願いを悪魔が邪魔します。なぜなら、私たち

の御霊の思いに立つことを悪魔が嫌っているからです。ですから、この御霊の心を塞いでいる壁に

気づいたら、それは、悪魔であることに気づいて下さい。そして、その壁を自分で砕きたいと思って

も、砕けなければ、全能主に祈りましょう。
それは強く懇願して行くものです。もし、本気で祈れば、

必ず全能主は答えて下さいます。そうすれば、自分自身が今まで
知らなかった、砕かれた悔いし心の中

から出てくる霊的な喜びと
聖なるものを知った喜びで、全能主の前で金銀の建物を建て始める事が嬉しく

なることでしょう。
どうか、自我が砕かれ、肉の壁が取り除かれた中で、御霊に属する純粋な建物を建てて、

全能主に喜ばれる真実なパートナーとなって行きましょう。それは、今こそ世の終わりの集大成のため

に働かなければならない時が、今そこに迫っているからです。



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