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2021年7月4日

『自我を砕き、(へりくだ)りの中を歩んで行く』

コロサイ2:13~14、第Ⅰコリント1:26~28


(起)自我を砕き、遜りの中を歩んで行く事が、アオリスト形の救いを頂いた者の次のステップ

である
」という事を学びたいと思います。



(承) さて、コロサイ2:13を見ますと、「あなた方は、かつては罪の中にあり、死んだ者でし

た。しかし、全能主は、あなた方をキリストと共に生かし、私たちの一切の罪を赦して下さった

です
」とあります。私たちは、いつもここを当たり前のように読み過ごしてしまっていますが、

これはすごい重味(おもみ)のある言葉です。どういう事かと申しますと、次の14節を見ますと、

全能主は、私たちを責め立てている債務証書を、私たちに不利な
色々な定めと共に、無効にされまし

。全能主はこれを完全に破棄して、十字架に釘付けにされました
」とあるからです。実に有り難い

感謝な御言葉です。これもすごい御言葉なのですが、ここを読んでもなかなか罪の赦しの実感が湧い

て来ないのが現実です。本来なら、全ての罪が無効になったのですから、罪の無い自分であるはず

です。しかし、現実の自分を見るとき、罪は依然と存在し、過去を振り返ると、ものすごい量の罪の


債務があって、その罪が現在も消えていないのが、今の状態です。ですから、私たちは自分自身の

罪の
債務が無効にされているとは、とても思えないのです。でも、それはある意味で当然です。

何故かと申し
ますと、ここは全部アオリスト形で書かれているからです。アオリスト形というのは、現在

の状況如何(いかん)に関わらず、
過去に起こった出来事を示す過去形です。だから、私たちが今それ

を実感する事は出来ません。しかし、
逆に言えば、私たちが今それを実感出来ようが、出来まいが、

過去において全能主がイエス様を通して、罪の債務を完全に無効にして下さったことは事実であり、その

事実は揺るぎません
それが、キリストの贖いによる救いなのです。しかも、全能主はその救いの中に

私たちを選んで召して下さいました。本来の私たちは、
いつも自分の罪に嘆いているような弱い人間

で、この世では、軽んじられる者で、無きに等しい者です。(第Ⅰコリント1:26~28)しかし、

全能主はわざわざ、こんな者を心に留めて下さり、福音に出会わせて下さり、それを信じる事が出来る

ようにして下さいました。
んな有り難い話はありません。



(転)
では、そのような私たちを選んで召して下さり、アオリスト形の救いの中に入れて下さった全能主の

目的、
その意図(いと)はどこにあるのでしょうか。それは、「どんな人間も、全能主の御前に絶対に誇らせ

ない」
(第Ⅰコリント1:29)ためですというのは、先程も申し上げたように、アオリスト形の救い

というのは、自分の手で触って、
「このように自分は救われました。聖くされました。罪が消え去り

ました。」と実感出来るものではありません。
私たちは、ただ全能主がイエス様を通して、成して下さっ

た事を信じ受け取っただけで、自分自身の罪を自分で
贖った訳でもありません。だから、現実問題、

罪は消え去っていないし、正しい人間になってもいません。今尚、罪のままの人間です。ですから、

このアオリスト形の救いは、この地上ではただ遜って行く事を教えているのです。
だから、信じて

救われたからといって、私たちは何も誇れないのです。
元々、私たちは取るに足らないうだつの上がら

ない者
です。そんな者を全能主は選んで引き上げて下さったのですから、私たちは絶対に威張っては
いけ

ない
し、人を馬鹿にしたり自分を偉い者と考えてはなりません。むしろ、キリストの救いの中に

召して
選んで下さった全能主の前に、どこまでも遜って行くだけです。実は、救いというものの目的は

そこにあります。
どういう事かと申しますと、全能主は、天で私たちと交わりを持つために、キリスト

の贖いによって人間の罪の問題を解決され、親しい交わりを実現する目的で、人間をお造りになり、

私たちを召されたのです。
天には
たくさんの偉い御使いがいますが、御使いは全能主に仕える者として

造られたのですが、遠慮なく何でも話し
合えるような交わりを持つ者としては造られてはいません。

そこで、全能主は御自身と同じような心を持って交わりを持つ事が出来る者として人間を造られまし

た。
しかし、そこでどうしても人間に理解させて置かなければならないものが遜りです。もし、人間

が全能主の前に傲慢な態度を取ったり、誇るような態度を取れば、
良い交わりは持てません

(牧師は、肉の兄弟である兄に対しても、自分の上に立つ者として、傲慢な態度を取ったり、誇るような

態度を取ったら、良い交わりは持てませんので、
遜りを実践しています。)だから、私たちが
全能主と

イエス様との良き交わりを持つためには、絶対に癇癪(かんしゃく)を起こして、切れてはいけません。私たちには、

下手に出る心の遜りが絶対に必要なのです



(結)このように、私たちは決して傲慢になってはいけないのです。全能主に心を閉じるのは、傲慢

の極み
です。私たちは、自分自身を見たならば、無きに等しい、取るに足らない者です。しかし、

そんな私たちを全能主は選んで下さり、天で交わりを持つという特別な救いを下さったのですから、

私たちはこの地上に
いる時、何が全能主に喜ばれる事かを考えて、残りの生涯を信じ従って行くべき

です。(ちな)みに、信じて従うとは「全能主が言われる事や、聖書に書いてある事はすべて正しい」

として、信じてそのまま受け留めて行く」
という事です。たとえ、「自分の感情にそぐわなくても、

文句を言わない」という事です。しかし、そこでつい
自分の意見や考えを出したくなってしまうのが、

私たちの自我です。その自我は砕かれて行かなければなりま
せん。私たちは元々無きに等しい者

あったのですから、自分が同意できるか、出来ないかは、どうでも
いい事だと悟って下さいそれが

遜る
という事であり、誇らないという事なのですから。この中を歩んで行く事が、
アオリスト形の救いを

頂いた者の次のステップです
。どうか、今日学んだものを悟り、残りの生涯を献身的に従って行こう

ではありませんか。



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