2021年6月27日
『全能主とイエス様のとの交わりの中に留まって』
第Ⅰヨハネ2章1~2節
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(起)「イエス・キリストのアオリスト形の救い」について学び、「命閉じるまで全能主とイエス様に結び
つき、その交わりの中に留まって行く」事を学びたいと思います。
(承)さて、第Ⅰヨハネ2:1を見ますと、「これらの事を書き送るのは、あなた方が罪を犯さない
ためです」とあります。もし私たちが本当に罪を犯さない者になれるなら有り難い事ですが、実際
問題、罪というものは、私たちが肉体を持っている以上は無くなりません。それなのに、「罪を犯さない
ために」と書いてあるのは一体どういう意味なのでしょうか。それを知る為には、アオリスト形に
ついてきちんと理解する必要があります。このアオリスト形とは、現在の状況如何に関わらず、過去
に起こった出来事を示す過去形です。ですから、聖書に語られているキリストの贖いは、アオリスト形
ですので「どこまでも、過去においてキリストが流された血によって、罪の為の贖いの供え物となら
れた」(2:2)という過去の出来事が根拠となって救いに預かるのです。ですから、現在の私たちの
状態が肉の性質のままであろうが関係ありません。それは「罪を犯さない者となるため」というのは、
アオリスト形ですので、現在の状況の如何によらず、過去においてキリストの贖いによって、罪を犯さ
ない者となったということです。そして、その実現は、Ⅰヨハネ3章2節にあるように「全能主の子
である私たちが、どのようなものになるのか、まだ明らかにされていません。それは、キリストが現れる
ときに明らかにされ、私たちは、自分たちがキリストと全く同じ性質になることを知っています。」
とありますから、キリストの再臨の時に「私たちがキリストと同じ性質にされる」のですから、その時
こそが「罪を犯さない者にされる」ことが実現する時なのです。ということは、2章1節の「これらの
ことを書き送るのは、あなた方が罪を犯さなくなるためです」というのは、キリストの再臨の時に実現
することで、現在の私たちが、罪を犯すか犯さないかという事について言及しているものではありま
せん。ですから、この意味は「過去においてキリストの贖いがあるが故に、キリストの再臨の時にあなた
方は罪を犯さなくなる」というのが正しい解釈ですから、ここを読んで、私たちは不信仰になって
落ち込んではいけないのです。
(転)さて、このように私たちは、キリストの贖いを信じた時に「罪を犯さない者になる」という立場
を頂いたのですが、それを実際に味わうのはキリストの再臨の時であって、今ではありません。
だから、その時が来るまでは、私たちは生れながらの罪人の状態をこの地上で抱えたままへり下って
行かなければなりません。それは何故かと申しますと、もしこの地上で、私たちが罪の無い聖い人間に
され、正しい人間となって、福音宣教を始め出したとすれば、自分を根拠にして、「信じれば私みたいに
清くなれますよ。」「信じれば私みたいに罪が全部無くなりますよ。」と、自分を根拠にして救いを
語り出すようになります。すると、福音を聞いて世界中の人々も同じように、罪が消え去った自分を
根拠に福音を語りだすようになり、誇るようになってしまいます。それは身の破滅に陥って行くことに
なります。何故ならば、ルシファーは最初自分の美を誇って、全能主よりも誇り高ぶり、全能主を
超えようとしたことが滅びの原因でした。ですから、信じた私たちも義とされた者なのに、手に入る
と、知らない内に義となった自分を誇るようになり、全能主にさえ誇って行くような者になるのです。
人間とは、そういう罪人の根があるのです。そうなれば、こんな恐ろしい事はありません。全能主は私たち
を誇らせるために、イエス・キリストを十字架につけたのではありません。だから、救いはアオリスト形
で良かったのです。私たちはどうしても「救われたのだから、今変わりたい。今醜い自分の性格から解放
され、正しい人間になりたい」と、願ってしまいますが、それは全能主の御心ではありません。ということ
は、私たちはこの地上では、どこまでも罪を犯してしまうような、罪人のままの者に過ぎませんが、それ
でも有り難い事に、罪を犯した者に対する執り成しがあるという事です。第Ⅰヨハネ1:7を見ますと、
「もし、私たちも光の中を歩むならば、私たちは互いに交わりを持ち続け、御子イエス・キリストの血
は、一つ一つの罪から私たちをきよめ続けて下さいます」とあります。ここに書いてある「私たちが
光の中を歩む」とは、「私たちが正しい行いをするならば」と言うことではなく、ここの意味は1:5
を見ると「全能主は光であって」とあるように、「光」とは「全能主の事」です。だから、「私たちも
全能主の中に歩むならば」という意味で、「全能主を信じる続ける中で、歩んで行きなさい」という
意味です。そして、「互いに交わりを持ち続け」とは、キリストを信じた兄弟同士の交わりのことでは
なく、1:3にあるように「私たちの交わりとは、全能主と御子イエス様との交わり」のことですか
ら、1:7全体は「もし、私たちが全能主を信じ続ける中で、全能主とイエス様との交わりの中に
留まって行くならば、御子イエス・キリストの血は、一つ一つの罪から私たちをきよめ続けて下さる」
という意味です。この地上にあって、罪人の肉体を持った私たちが過ちを犯し、罪を犯すことがあっ
ても、ちゃんと全能主と結びついて離れる事をしなければ、イエス様の血が、私たちの一つ一つの罪
を執り成して下さり、きよめて下さいます。だから、こんな罪人でも天に上げて頂けるのです。
(結)こういうわけで、キリストの救いというのは、「自分で自分の罪を償って罪を犯さない人間に
なる」というものではありません。その証拠に「もし、私たちが罪がないと言うなら、それは自分を
欺くことであって」(1:8)、また「私たちが、罪を犯したことが無いと言うなら、それは全能主
を偽り者とする」(1:10)とあるように、現在の私たちは、罪の中に閉じ込められているのであっ
て、罪を犯さない人は一人もいないのです。しかし、罪の無いお方が身代わりとなって贖いをして下さい
ましたので、私たちはこのイエス・キリストの故に救われているのです。しかし、この救いはアオリスト形
ですから、現在の状態の中では救いを実体験できませんが、それは、キリストの再臨の時に初めて
キリストと同じ姿、同じ性質に変えられた自分を見るのです。だから、もう「信じて救われたのに、
自分は昔と全く変わっていない、それなら教会に行っても仕方がない」と、救いをないがしろにしては
いけません。むしろ、罪が消え去って傲慢になるより、罪人のままで遜って行った方が良いのです。
なぜなら、救いというものがアオリスト形であったおかげで、私たちは傲慢にならなくて済んだのです。
ですから、遜り、感謝しようではありませんか。そして、今はこの罪人の肉体を抱えながらも、「イエス様
の再臨の時にキリストと同じ性質の者とされるのだ」と、確信を持って生きて行くのです。こんな救いは
どこにもありませんので、命閉じるまで全能主とイエス様に結びつき、その交わりの中に留まり、
死ぬまで全能主とイエス様の中に歩み通しましょう。
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