2021年6月6日
『御霊に適う歩みをし続けて行く事』
ガラテヤ人への手紙
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(起)「御霊によって歩みなさい(ガラ5:16)」と言われている、父なる全能主の御霊(Ⅰコリント
12:3)によって歩むこと、すなわち聖霊のバプテスマによって賜物を頂き、これからの働きに用いて
頂くために、「御霊に適う歩みをし続けて行く事(ガラ5:25)」を学んで行きたいと思います。
(承)まず、ガラテヤ3章21節では、「律法は全能主がアブラハムと結んだ約束と相容れない
ものなのでしょうか」という質問が出て来ます。この質問は、どういう意味かと言いますと、「絶対
主は、アブラハムとの間に『信仰による義』という契約を結び、その後にモーセを通して『行いによる
義』という律法による契約も結ばれました。」そこで、「全能主は一人しかおられないのに、相反する
二つの契約を結ばれたとはどういう事ですか?」という疑問が出て来た訳です。この二重契約と言える
契約は、譬えるなら「イギリスがイスラエル人とアラブ人に対して、それぞれ同じ契約を結んだ事柄の
ようなものです。イギリスがオスマン帝国と戦争をしていた時代、イギリスはイスラエルに対しては、
『もし金をくれたら、パレスチナにユダヤ国家を建設する事を支持する』という契約を結び、また、
現地のアラブ人に対しては『もしイギリスの味方をして武装蜂起をしてくれたら、パレスチナを自分
たちの物にしても良い』という二枚舌を使い、二重契約を結びました。しかし、戦争が終わった後、
イギリスがその契約から手を引いてしまった為、二つの契約が有効のまま宙に浮いた状態となって
しまい、イスラエルとアラブがお互いに『自分たちがイギリスと契約を結んだのだから、ここは自分
たちの地だ』と言い争っているのです。」ところが、全能主がアブラハムの子孫と結んだ「信仰に
よる義」と「行ないによる義」の二重契約の場合は、「決して相容れないものではない」ということ
を、パウロは解き明かしています。どういう事かと申しますと、全能主は、「信仰による義」という
契約をまず結び、その後「行いによる義」という真逆の契約を結びました。確かに、この時点では一人しか
おられない全能主が、二つの相容れない契約を結んだ事になります。しかし、「人間は守ります。守り
ます」と言って、実際には二つの内「律法による契約」を破ったのです。すると、契約を破ったイスラ
エル人は違反者として呪われて、本来なら裁かれる状況の中に置かれました。しかし、まだ「信仰による
義」という契約が残っていました。実は、この契約は、全能主が一方的にアブラハムと結んだ契約であり、
アブラハムの行ないと関係なく、全能主の約束で結ばれたものでした(創15:17)。ですから、「信仰に
よる義」という契約は、アブラハムとアブラハムの子孫に対して、(子孫は単数形で、キリストを
指していました。ガラ3:16)全能主が一方的に結んだものでしたから、祝福の効力はあっても、人に責任
が問われるものではなかったのです。しかも、その契約はキリストが来られた時に、キリストがなされた
罪の贖いを通して、信じる人々には、「信仰による義」が与えられるという約束でした。このことは、
全能主は初めから「行ないによる義」では実現しないことを知っておられたので、キリストを信じ仰ぐ心に
よって「信仰による義」を与える計画を立てておられたからです。ですから、この二つの相容れない契約
は、全能主は先のことを見据えておられた中で、初めから「信仰によって義とする」事を目的で、全能主
が成された、全能主ならではの計画であったのです。なぜなら、律法による契約を結んだ目的は、信仰に
よる義を馬鹿にしていた人々に、律法の下に閉じ込めて「人間の決心が如何に、もろいものであるかを思い
知らせ」、アブラハムの相続に預かることは、全能主の憐れみによる「信仰の義」しかないことを、教え諭す
ためのものであったのです。ですから、律法は全能主の約束と相容れないものではなかったことが証明され
たのです。すなわち、全能主の二重契約は、全能主であったからこそ出来たことであって、イギリスがイス
ラエル人とアラブ人に対して成した二枚舌の約束のようなものではなかったのです。むしろ、全能主は「信仰
による義」を全ての人間に与えるため、人間の行ないではどうにもならないことを示して、「信仰の義」こそ、
人の救われる道であることを分からせるために成された、全能主の恩寵だったのです。
(転)では、この出来事によってはっきりと全能主が明らかにさせたかった事とは何でしょうか。
それは、「人間は、律法の行いによって義を得る事は出来ない罪人である」という事実をはっきり
させたかったからです。ですから、私たちはキリストを信じた後に、信じたのだから、「これをしな
ければならない。あれをしなければならない」という律法の中に逆戻りして、再び律法の奴隷になろう
とすることは愚かであって(ガラ4:9)、救いは、人間の努力では得ることが出来ないことを示された
のです。何故なら、人間はアダム以来、罪の下に置かれた者で、いくら頑張っても律法によって義を得る
道はないからです。だからこそ、全能主の救いは、キリストの死を通して得る道しか残されていな
かったのです。こういう訳で、全能主の恵みを無駄にしてはいけないのです。(2:21)。私たちは
自分の行いで誇ろうとしても、誇れない人間ですから、どこまでもキリストの贖い、即ちキリストのアオリ
スト形の救いに根拠を置いて、生かして頂く者なのです。それは具体的にどういう生き方をするのかと
言うと、「自分は天の相続を受ける者」という前提で、天国人として生きて行く事です。即ち、御霊に
よって歩むのです。今までの律法の行いによって得られるかのように追い求めて来た生き方から決別し、
「御霊に導かれ、御霊に適う歩みをする」のです(5:16、5:25)。これが、ガラテヤ書の結論
なのです。即ち、「御霊によって歩む」事であり、「御霊に適う歩みをし続ける」という事なの
です。そして、私たちが御霊に適う歩みをし続ける為にどうしても必要なものが、聖霊のバプテスマ
です。聖書には、御子が下さる内住の御霊(ガラテヤ4:6)と、父が下さる全能主の御霊(第Ⅰ
コリント12:3)が区別して記されています。全能主の御霊とは、「父の約束を待ちなさい」と
イエス様が言われた聖霊のバプテスマの事です。即ち、賜物です。私たちは、これから御霊に
よって、御霊に適う歩みをし続けて行くのですから、色々な賜物が必要です。特に、これから患難
時代に入ったら、まず遭遇するのは、悪魔の騙しです。悪魔の言葉が如何にも全能主の言葉のように聞こえ
たり、悪魔から来る誘いが如何にも全能主から来る導きのように思えたり、そんな事が現実に起こって
来るでしょう。だから、これからの私たちの歩みに必要なのは、全能主の賜物である「霊を見分ける
力」が必要となってきます。
(結)さて、このように私たちはロマ書とガラテヤ書を通して、キリストの贖いによって義とされる
という最高の救いの奥義を学んで来ました。それはアオリスト形の救いです。このアオリスト形の救い
に与った者は、もう地上の人間ではありません。地上の法則に捕われない、世に対して死んだ、
天国人です。天国人は新しい創造の中で生きて行くのです(ガラテヤ6:14~15)。即ち、自分の
栄光を追い求めて行く生き方ではなく、御霊に適う歩みをし続けて行く事(ガラ5:25)が、絶対
主の為に生きて行く生き方です。こういう訳ですから、どうか、父から来る全能主の御霊、即ち聖霊の
バプテスマを受けて、これからは、全能主の御心を行う働きに用いて頂き、御霊に適う歩みをし続けて
行こうではありませんか。
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