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2021年5月30日

残りの生涯を全能主の御旨の為に生きていく

ローマ人への手紙14:7~8

(起)ロマ書14章7節、8節から「私たちの内、誰一人として自分のために生きている者はなく、

誰一人自分のために死ぬ者はありません。それは、私たちが生きるなら主のために生き、死ぬなら主の

ために
死ぬからです。ですから、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです」という

御言葉から、「信仰の
確信を持って、残りの生涯を全能主の御旨の為に生き、大胆に福音を宣べ

伝えて行く」
ことを学びたいと
思います。



(承)さて、7節では、「私たちの内、誰一人として自分のために生きている者はなく"、“誰一人

自分のために
死ぬ者はありません」とあります。この御言葉が土台となって、ロマ書では12章

以降になると、「こうしなさい、ああしなさい」という戒めが多くなります。しかし、その戒めは

決して律法ではありません
。何故かと申しますと、
ロマ書9章32節では、「イスラエル人は、信仰

によらないで、律法の行いによって得られるかのように追い
求めた為に、つまずきの石につまずいた

のです」とある通り、救いというのは律法の行いによって得られるものではないからです。

では私たちは何によって救われるのかと言いますと、キリストの贖いです。キリストの
贖いは

「アオリスト形」
ですから、「現在の自分の状態がどうであるかは関係なく、過去に起ったキリストの

贖いを
根拠に救われるのです」。だから、これが私たちの「信仰の確信」であり、現在の自分自身の

状態を見て、
「救われている」とか、「救われていない」とか考えてはいけません。過去になされたキリ

ストの贖いによってのみ、
私たちは罪から解放され、律法からも解放されるのです。ですから、そう

いう立場を頂いた者として「こうして
行きなさい」と勧めているのが、12章以降の内容です。即ち

ロマ書12章以後の戒めは、
「御国の中に入れて
頂ける人間」という前提で語られている勧めであって、

「これを守らなかったら御国に入れてもらえない」という内容ではありません。私たちは既にキリ

ストの贖いによって義を頂いており、もう罪の下にも、律法の下にも
ありません。「はっきり言って、

罪に対して死んでしまった者なのです。」
だから、私たちは自分が救われるために
一生懸命何かをしな

ければならないという事もないし、裁きを恐れる必要もありません。となると、「何をしても良いの

ですか」という疑問が出て来ます。もちろん、律法からも解放されていますから自由です。しかし、

その自由は肉の放縦のための自由ではありません。「救われた者は、もう自分のために生きる事も、死ぬ

事もしない」
ですから、「生きるなら、主のために生きます。」その心が、12章2節に繋がって来る

訳です。
即ち、「あなた方は、この
世と妥協してはいけません。むしろ、自分の心を新たにすること

によって、何が全能主の御旨であるか
あるいは何が善であって、全能主に喜ばれ、かつ全き事である

のかを(わきま)え知るために、変えられ続けなさい。」
とあります。この「何が、全能主の御旨か」を考え

れば、(おの)ずと12章以後の生き方になってくるのです。これを否定する御言葉はありません。

ですから、ロマ書12章以後の戒めは、救われた者の自由な前向きな生き方なのです。



(転)
では、私たちクリスチャンはこの地上にあって、どういう心を持って自由な生き方をして行けば

良いので
しょうか。それは、この地上で、たとえ罪深い肉の性質を持っていても「天国人のような生き方

をして行く」
のがクリスチャンです。この生き方をして行く為には、私たちは地上の損得のために

信仰を犠牲にして、
この世に妥協するような生き方をしてはいけません(ロマ12:2)。また、13章

8節に「誰に対しても何一つ借りがあってはいけません」とある通り、地上で借りを作ると、地上に心が

縛られてしまいます。すると、天国人のような生き方が
できなくなり、この世に妥協し、世に後ろ髪を

引かれていくようになります。それは、世の人間として自分のために生きる者になってしまうから

です。すると、地上に魂が縛り付けられ、自由人となったクリスチャンの
生き方から、引きずり落と

されることになってしまいます。しかし、この戒めはあくまでも律法ではありませんので
必ずしも、

「全ての点で借りがあってはいけません」という事ではありません。やむを得ず、車のローンをする


場合もあるでしょう。だから、この二面性を信仰でコントロールしていく必要があります。すべてを律法

で捉え
てはいけません。例えば、将来、バイブルランド、ノアの箱舟ミュージアム、10万名教会

を建設する際に、未信者からの助けが当然必要になります。また、いろんな協力者が私たちの教会

に来るかもしれません。
ですから、その人たちの考えに助けられることもあるので、全てが駄目と

言う訳ではないのです。しかし、そう
いう未信者からの協力や助けを受ける時、信仰の妥協はしたく

ありません
。だから、未信者に誘導されて、
霊的な物の(とら)え方が出来なくなっては困ります。だから

こそ、堅く信仰に立って、コントロールしていく必要があります。この信仰のコントロールは「どこま

でも自分のためにするのではなく、主のためにする」
という前提で
()されていきます。ですから、

バイブルランドの完成はその証を持って成されていくのです。それ故に、
私たちの霊的な感覚、霊的な

心、霊的に自由な信仰は、研ぎ澄まされていなければ成りません。
そして、世に魂が奪われること

なく、働きを進めて行く必要があります。私たちは、「この世のお金とか、助けによって自分自身の
霊的な

魂を売りたくない」
という心だけは、しっかりと持って行くべきです。私たちはもう自分の救いの

ために生きる必要はありません。だからといって、地上で生きている以上、地上の事柄はどうでも

いいと言う訳には行きません。
ここに真理の二面性があります。だから、地上にいながら、天国人

のような生き方
をするために、どこまでも主にあって考え、それを通して行くことが、ロマ書全体

を通して、最終的にパウロが言いたかった
メッセージであり、「あなた方の体を、全能主に喜ばれる、

生きた聖なる供え物としてささげなさい。」
というのが
結論であり、この心を持って自由な生き方を

して行くのです。


(結)このように、私たちは、イエス・キリストの贖いによって救いを受け取り、現在の状況如何(いかん)

関わらず、
天の御国に入れて頂ける者とされたのです。ならば、私たちは天国人として12章以後

の勧めを前向きに
(とら)、全能主の前に「何が主の御旨であるかを(わきま)え」て、「残りの生涯を全能主の

御旨の為に生き」
「主の御名を呼び求める者は、すべて救われます(10:13)」という、アオリ

スト形の救い
(たずさ)えて、全世界に出て行って大胆に福音を宣べ伝えに行くのです。その時に、私たち

にとって
「主のために生き、主のために死ぬのなら、満足でした」と言えたら、クリスチャン冥利(みょうり)

尽きるでしょう。これが、私たちが選ばれた目的です。「この主のために生き、主のために死ぬ」生き

方こそが、私たちにとって信仰の確信ですから、その確信と御霊の心を持って証して行きましょう。



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