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2021年6月13日

競争心に惑わされない、キリストに対する自由な生き方

ヘブル人への手紙6:13~18

(起)「自分の弱さや自分の罪を素直に認めて、世の競争心に惑わされないで、ただキリストに対して

生きていく自由な生き方
」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、6:18を見ますと、「全能主が立てられた二つの不変の事柄によって、前に置かれた望み

捕らえるため・・・」とありますが、この「二つの不変の事柄」とは一体何でしょうか。実は、創世記

に大きなヒントがあります。創22:17~18を見ますと、わたしは、必ずあなたを大いに

祝福し、大いにあなたの子孫を増やし、天の星のように、浜辺の砂のようにする。
そして、あなたの

子孫は、敵の門を打ち破り、
また  地の諸々の国民は、あなたの子孫によって祝福を得よう」とあり

ます。これは、全能主がアブラハムに
誓われた言葉ですが、ここで全能主は二つの約束をしている事が

分かります。一つ目は「アブラハム
個人に対する祝福」、二つ目は「全世界の人々に対する祝福」です。

そして、その全世界の人々は、「あ」なたの子孫によって祝福を得る」とあります。この「あなたの子孫

とは、ガラテヤ書3:16でも学んだように、これは単数形ですのでキリストの事を言っていると

パウロは述べています。要するに、全能主がアブラハムに対して誓われた二つの約束とは、「アブラ

ハムに対する直接の祝福」と、「異邦人も含めた
全世界の人々に対するキリストによる祝福」という

事です。へブル書6:18では、アブラハムに対する
祝福しか出て来ません(6:13~14)ので、

ここを二つの祝福と読み取るのは難しいのですが、創世記を
見るとよく分かります。そして、その二つの

不変の事柄によって、「
前に置かれた望みを捕えるため」とありますが、この「前に置かれた望み」

とは何かと言うと、「信仰による義」の事です。要するに、先週も
学んだように、全能主は「最初に

信仰による義」の契約を結ばれ、「次に律法による義」の契約を結ばれた
のですが、人は決して律法に

よって祝福を受ける事は出来ませんでしたので
、全能主は「キリストの
贖いを信じる事によって祝福

を受ける」という事を、創世記では記していたのです。そして、その保証が全能主の誓いによって

なされている
というのが、ヘブル書6章の内容です。全能主は、人は信仰による義でしか救われない事

を分からせるために、あえて律法による義の中にユダヤ人を閉じ込めました。
そして、「自分たちは

行いによって義とされる事は出来ない」という事を思い知らせた後で、信仰による義によって救われる

道がまだ残っている事を明らかにされたのです。異邦人に関する「信仰による義」は、
イスラエル民族と

違い、初めから異邦の民として見捨てられていた民族でしたので、全能主はアブラハムに
対して約束され

た時点で、キリストによって異邦人も救うと決めておられたのです。だから、ユダヤ人も異邦人も

結局求められている一点は同じ
で、全能主の約束である「信仰による義」、即ち、イエス・キリスト

贖いを「信じる信仰によって祝福を得るように定められた」のです。



(転)
このように、私たちはロマ書・ガラテヤ書・へブル書を通して、キリストの贖いによって義と

される
という最高の救いの奥義を学び、アオリスト形の救い(あずか)ったのですから、もう地上の人間で

はありません。
地上の法則に捕われない、世に対して死んだ天国人です。天国人は新しい創造の中で

生きて行っていいのです。
という事は、少なくとも自分の栄光を追い求めて行く意識から離れていか

なければなりま
せん。しかし、今なお、私たちは自分が褒められる事を追い求め、「自分が正しいという

事を認めてほしい」、
「自分は一生懸命やっているのだから、(おこ)られたくない」という意識を持っている

のが現実です。しかし、
ヤコブ3:2を見ますと、「私たちは皆、多くの過ちを犯すものです。もし

ことばの上で過ちのない人で
あれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人です」

とあるように、私たちの現実は実に
多くの過ちを犯す者であり、自分の言葉すら制御する事が出来

ない者なのです。事実、自分の罪や弱さは、いくら(きら)っても変わりません。それなら、弁解したり

反発したりせずに、罪人の自分を素直に
認めて、遜って行くしか出来ない者です。ですから、クリス

チャンは、もう世の栄光を求めて生きて行く
のではなく、今はへりくだって行く心を持って行くなら、

それで良いのです
。しかしながら、私たちは何度も失敗しつつ、反抗心を抱いて自分のプライドを

立てようとするのです。何故、いつも素直にならずに反発したり、抵抗したりしてしまうのでしょう

か。それは、子供の頃から競争心が身についており、誰に
対しても負けたく無い精神が働き、それが

虚栄となり、罪に繋がって行くからです。そして、遜るというのは、
自分の負けを認めることであるの

で、敢えて「遜る事をしてこなかった」というのが現実だったのです。
この心がクリスチャンの生き方に

邪魔をしています。それは、仕事場でも学校でも家でも、人の集まる所に行くと、知らず知らずのうちに

競争心の(とりこ)になって、負けると弁解する心が出て来て、虚栄に走るのです。
しかし、私たちはもう十字架

につけられて死んでしまった者であり、この世も私たちに対して十字架に
つけられてしまったのです。

という事は、私たちは競争する相手もいないのですから、自分が(しか)られたり、良い結果が出せな

かったからといって、反発し、落ち込む必要は無くなったのです。なのにえて「自分は
もうダメだ」と

言って落ち込むのは、「人間の傲慢」です。
なぜなら、人間は元々自分の能力に頼って律法を行う力

は無かったのですから。ですから、過ちを犯してしまったり、失敗してしまったら、その事実を素直に認め

て、淡々と遜って行けば良いのです。何故なら、自分はキリストと共に死んでしまった人間で
あり、世も

死んでしまったのですから、この世的な世界の常識から抜け出すべきだからです。
クリスチャンの生き方

は、どこまでも「天国人」として生きて行けば良いのです
から、もう世に(こだわ)る必要が無くなったのです

この生き方をして来たのが、信仰の人と言われるアブラハムたちの生き方でした。ですから、私たち

アブラハムの信仰に習って、この世は旅人寄留者として生きて行けば良いのです。それが分かれ

ば、肩の力が抜けます。



(結)
こういう訳で、「私たちはイエス・キリストの贖いによってアオリスト形の救いを頂いており、

世に
対しても死んだ「天国人」ですから、「私はキリストと共に十字架に付けられました。もはや、

私が生きているのではなく、キリストが、私の中に生きておられるのです。しかし、私が今、肉体に

あって生きているのは、私を愛し、私のために御自身を献げられた全能主の御子を信じ仰ぐことに

よって、生きているのです」(ガラ2:20)
という生き方になっていくのです。自分の弱さや罪は、

この地上にあっては消えません
ので、ただ淡々と罪を認めてへりくだって行けばいいのです。また、

競争心を抱いて人と見比べ、自分の
弱さを見て落ち込む必要もありません。今、罪の肉体を持って生き

ているとしても、「天国人」としてキリ
ストを信じ仰ぎながら、生きているのですから、与えられた使命に、

一本道で一生懸命やって行きましょう。
ここに、私たちの自由な生き方があります。どうかこの事実を、

信仰によって心に結びつけて行こうではありませんか。


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