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2021年3月7日

自分や人に対してではなく、全能主に対して生きて行く

第Ⅱコリント12:9


(起)「わたしの恵みは、あなたに十分ある。わたしの力は弱いところに完全に現れるからで

ある」
という御言葉から「自分に対してではなく、人に対してでもなく、全能主に対して生きて

行く」ということを学んで行きます。



(承)さて、ここで語られている「弱さ」というのは、直接的にはパウロの肉の弱さについて

語っていますが、霊的には、私たちの肉の弱さのことではありません。ここで言う弱さとは、

全能主の前に100%罪人である自分のことです。人は皆、全能主が持っておられる聖さ、また

全能主の高潔さに到達することはできません。全能主は完全なお方ですから、その全能主の前に

罪人が一生懸命努力しても到底認めてもらえることはできないのです。ですから、「義人はい

ない、一人もいない。誇れる能力を持った者は、一人もいない」と言われているのです。たとえ、

私たちが「できた」と思っていることも、自分の勝手な物差しの範囲内で満足しているだけで、

全能主に認めてもらえる訳ではありません。なぜなら、罪人の行う善きことは、罪人の行う結果

しか出て来ないからです。そんなものは全能主の前に一つも通用しません。だから、
全能主の前

に全ての人間は、生まれながらに弱い罪人であり、完全にお手上げの状態なのです。
しかし、

私たちにはそれをなかなか認めることができません。
何故かと申しますと、私たちは
普段、人に

対して生きており、人と比べて生きているからです。
この人に対して生きている生き方は、クリ

スチャンも同じようにしています。それは、教会から一歩離れた瞬間に、私たちの目の前には

人がおり、知らない内に、この世の中の考えに合わせている自分がいるからです。すると、
教会

では意識していた「全能主に対して生きるクリスチャンの本来の生き方」
も、あっと言う間に

どこかへ消えてしまい、世にしっかり迎合している自分を見て「人からどう思われるか」と、

この世で認められることばかり考えている自分がいるのです。その時には、「自分は罪人です。 

お手上げです」という意識はどこかへ行ってしまい、未信者と同じように世で受け入れられる為に

一生懸命無駄な努力している自分に、どっぽり浸かっているのが現実です。何故なら、社会に出て

行くと、「私は罪人です。助けてもらわなければ何もできない弱い者です」というようなことを

言っていたら、「こんな奴は使えない」と言われて、()け者(あつか)いされてしまうのです。

だから、
本当は弱い人間なのに、弱くない顔付きをし、できないのに、できる顔付きをして、

「何とか自分の力で受け入れてもらおう」と生きているのです。
それは、全能主に対して生きて

いるのではなく、人に対して生きている姿です。
実は、そこが私たちの大きな問題です

本来なら、私たちはイエス・キリストの贖いを信じた時点で、「この世は、私たちに対して

十字架に付けられ、私たちもこの世に対して十字架につけられました」(ガラ6:14)。

だから、クリスチャンは世に望みを置かず、全能主に対して生きるのが正しいのです。もし、
 

全能主に対して生きる意識をはっきり持っていたら、
弱い人間でも、世に対して淡々と生きて

行けるはずです。それは、「世に認めて貰っても、認めて貰わなくても」どちらでもいいと思える

ようになるからです。そして、地上的な能力優先の世界ではなく、全能主に対して生きていく世界

が自分の生きる世界になるからです。ですから、
地上にあって「私たちは弱い者ですが、キリスト

の力が私の弱いところに完全に現れるから」と、大胆に自分の弱さを認めてお手上げしていい

のです。
私たちは、このことを知ったので、ただ遜って救いを求めたのです。それなら、信じた

後も、ずっとその心で生きて行くべきです。



(転)では、そんなお手上げの状態の私たちが、全能主の前にどのように歩んで行けば良いので

しょうか。罪人は、「お手上げで、弱い人間だから、何もやらなくていいのか?」というと、

そうではありません。ヤコブ1:25を見ますと、「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて

踏みとどまる人は、行う人となります。こういう人は、その行いによって祝福されるのです」と

あります。「完全な律法」とは何かと申しますと、御霊による生き方です。即ち、自身の勘や

自分の願望や自分の勝手な努力によるのではなく、
いつも全能主に対して生きている人は、祈り

ながら、御霊によって導かれて生きて行こうとする生き方をするからです。
その中で、私たちは

全能主の御心に適ったことをやらせていただくのです。全能主の御心が分かってその道に進んだ

のなら、たとえその後で行き詰まりを覚えたり、困難にぶち当たったとしても、それは自分の勘

で始めたことではなく、全能主に導かれて始めたことですから、どこまでも(あきら)めずに最後まで

突き進んで行きます。そういう人には、イエス様の恵みが十分にあります。即ち、
「わたしの恵み

は、あなたに十分ある。わたしの力は弱いところに完全に現れるからである」
とあるように、

自分は 弱い人間でも、全能主から力が与えられて、その恵みの中で働きをさせていただけるの

です。
これがクリスチャンの生き方です。
この生き方を貫くためには、土台として、全能主の前に

お手上げの心を持っていなければなりません。なぜなら、お手上げして、初めて世に対して(あきら)め、

自分に対しても(あきら)めるからです。すると、全能主に対して生きて行こうとします。ならば、

この世の人がどう思うかは関係ありません。それより、全能主に対して生き始めた人は、全能主が

その人の為にいろいろ考慮して助けて下さいます。もし全能主の導きによってある会社に入った

なら、人の顔色を見て、人に対してするのではなく、全能主に対してするように、淡々と仕事を

やって行くべきです。もし失敗しても、罪人ですから、謝れば良いのです。その時に、「怒られ

たくないとか、そんなつもりはないとか」言って、弁解する必要はありません。「悪いことは

悪い、良いことは良い」のですから、上役の評価された判断に 従えばいいのです。自分を守る

気持ちで謝っても相手に伝わりません。しかし、自分が犯した罪、失敗を、全能主の前に認めた

なら、人前にも素直に謝れるはずです。この気持ちを持って、上役にも素直に謝れば良いのです。

それでも、もし会社に受け入れてもらえなければ、全能主に聞いて、別の会社に替われば良いの

です。


(結) 私たちは、自分自身の能力に頼って生きるのではありません。或いは、自分自身の願望や

勘に頼って生きるのでもありません。私たちは、自分に対してではなく、人に対してでもなく、

全能主に対して生きる者です。
そんな私たちにとって、「わたしの恵みは、あなたに十分ある。

わたしの力は弱いところに完全に現れるからである」
と、その意識をはっきり持って、全能主に

対して生きて行きましょう。

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