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2021年3月14日
『
信じる行いが試される時
』
ヤコブの手紙2:14~26
(起)
ヤコブ書2章14~26節より、「『自分には主を信じる心がある』と言っても、もし
行いがなかったら、何の役に立つでしょうか」(14節)というヤコブの手紙から、アブラハム
による信仰の行いを通して、本気で全能主を信じる信仰者とはどういうものか、また全能主に
信頼される働き人とはどういうものかを学んで行きたいと思います。
(承)さて、このヤコブ書の学びは、今の私たちの教会にとって
折
(
お
)
りに適った書簡です。
もしこのヤコブ書が記されていなければ、私たちは「ただ、キリストの恵みで救われている」と
いう所に留まっていた可能性があります。確かに、キリストは私たちの罪の身代わりとなって
死んで下さいました。だから、
「イエス・キリストを信じるなら、恵みによって救われる」という
ことは間違えのない事実です。しかし、それは信仰の在り方の一面に過ぎません。
「信じている」
と言うことだけなら、悪霊でさえ全能主の存在を知り、身震いしています(19節)。
しかし、
本当に全能主を信じた者ならば、全能主に対して信じた者の思いが行動となって外に
表れて来るでしょう。
その信じた者の行いについては、ヤコブがアブラハムの行ったイサクを
捧げる行為によって説明しています。アブラハムは100歳になって、ようやく子供が与えられ、
「あなたの子孫は星の数のように増え広がって行く」と、全能主から約束されました。しかし、
アブラハムにとってかけがえのないイサクを、「わたしのために捧げよ」と全能主から言われた
のです。この全能主の申し出は、理に適うものではありません。なぜなら、アブラハムの子孫
の繁栄は、世継ぎがいて初めて成り立ちます。なのに一人息子を「何故、祭壇に捧げよ」と仰る
のですかという気持ちを、アブラハムが抱いたに違いありません。でも、彼は全能主の言葉に
従い、
掛
(
か
)
け
替
(
が
)
えのない一人息子を祭壇に捧げる行為によって、その行いが義と認められた
のです。
それは、アブラハムの信仰が単なる頭だけの知識ではなく、全能主を本気で信じるが故の
行動を取ったからです。
即ち、「自分の子供を捧げよ」という、ありえない命令に対して、
「全能主は何でもできるお方だから、ここで イサクを失ったとしても、イサクを甦らせることが
できる筈だ」と信じて、子供を捧げようとしました。すると、全能主は、「あなたの信じる心は
分かった。その子に手をかけてはならない」と声を掛けられたのです。アブラハムは、この経験を
通して、
「本当に間違いなく聖なる全能主はおられる。このお方に従って行くことは、自分に
とって間違いのない生き方だ」と確信したのです。
(転)では、私たちはどうでしょうか。私たちも自分の命の創造主を知りました。そして、全能主
の存在が明確になった時、進化論も単なる仮説として恐れがなくなり、全能主と自分の関係こそ
が、第一だと確信できたのです。しかし、日常生活に戻って行くと、その意識が曖昧になり、結局
自分の損得ばかり考え、この世の常識に捕らわれて、全能主に対する意識が薄れて行くのです。
こんな地上の損得に捕らわれている自分が、私たちの現実の姿です。こんな二心をずっと引き
ずっていたら「聖書に書いてあることは、
今日
(
こんにち
)
も起こる」という真理を味わうことなく
終わってしまいます。だから、私たちも全能主に対して本気で、アブラハムのような信仰の行いを
経験する必要があります。それは、むしろ「イエス・キリストを信じる信仰により、恵みによって
救われる」ということが、実際に自分の心の中に根を下ろす為にも、信じた行いをしていくことは
私たちにとって大切です。
そうすることによって、普段の生活においても、全能主にあって物事を
考え、判断して行くことが正しいことであると、確信できるようになるからです。
即ち、食べる
にも飲むにも、何を行うにしても、自分の勘や自分の感情で判断するのではなく、確かなお方から
の導きによって判断して行けるようになるのです。それが、私たちクリスチャンの生き方であり、
残りの生涯の証です。
たとえ頭で理解したことも、それが自分の心の中に入っていけば、それは
確信に変わります。
そして、
心に入れたことを、勇気を持ってその通りに行動していくと、全能主
と私たちは一つになるのです
。
(結)ですから、私たちもアブラハムのように信仰による行いを勇気を持って大胆に表わして行き
ましょう。
その時、信仰が行いと共に働き、その行いによって信じたことが全うされるのです。
全能主に従うということは、その
度
(
たび
)
毎
(
ごと
)
に私たちの信じる行いが試されます。
「本当にできる
だろうか」と思うようなことも起こってくるかもしれません。でも、それを信じてやって行く
なら、信じた甲斐があります。なぜなら、それを成し終えた後には、大きな勝利感と全能主に
対して確信に満ち溢れるからです。
ですから、信じる行いが試される時には、そこには全能主が
背後におられることを知って下さい。
「自分にとって、ここを乗り越えるのは難しい」と思う時
こそ、
信じて行動を取ることが、信仰の確信を増す秘訣です。
また、全能主に従うなら間違いない
という、証が出来るようになります。どうか、私たちもアブラハムのように、信じる心の行為を
証して行きましょう。そして、本気で全能主を信じる信仰者となって、全能主に信頼される働き
人として用いて頂こうではありませんか。
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