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2021年3月21日

今この時から、勝利を得る者としての証しを残していく

ヨハネの黙示録3:14~22


(起)黙示録3章15節~19節までの御言葉から、「あなたは熱くもなく、冷たくもない。

あなたは生ぬるいので、わたしの口から吐き出そう」と言われるイエス様のメッセージから、

「患難時代を通っていくクリスチャンの心構えと、
今のこの時から、全能主に忠実である信仰

の行いを表わし、それが私たちの当たり前の事」となるように学んで行きたいと思います。



(承)さて、今お読みした「七つの教会に宛てられた手紙」ですが、この箇所は、いろいろな

 (とら)え方をされる箇所でもあります。ある教会ではこの内容を「七つの時代区分」と(とら)え、

最初にエペソの時代があり、次にスミルナの時代があり、そして・・・自分たちは今「フィラデル

フィアの教会時代に生きている」と考え、3章10節の「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが

守ったから、・・・全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたを守ろう」という御言葉から、

「自分たちは患難を通らない」と無理矢理解釈し、クリスチャンは患難時代の前に天にあげら

れる」と誤解して、「患難前携挙(けいきょ)説」を唱えているのです。しかし、現在の私たちの教会を、

他の6つの教会ではなく「フィラデルフィヤの教会だ」と何故言えるのでしょうか? その根拠は

どこにもありません。また、4:1の「ここに上って来なさい」という箇所を取り上げて、

「これがクリスチャンの携挙だ」と捉えている教会もあります。しかし、「ここに上って来な

さい」という言葉は11章12節にも書かれており、
必ずしも
4:1がクリスチャンの携挙を

意味しているとは言えません。はっきり言って、聖書のどこを読んでも、「患難時代の前に

クリスチャンが天に上げられる」とは書いていないのです。むしろ、福音書や他の手紙の内容を

見れば、イエス・キリストの再臨は、「荒らす憎むべきもの」が出現した後の事だと、聖書は

明確に記しています。しかも、患難時代には「聖徒の忍耐がある」と書かれ、聖徒が患難時代の

「ど真ん中」を通って行くことは明白なのです。



(転)では、聖徒たちが患難時代を通っていくことが明白に記されているなら、私たちは、


「冷たくも、熱くもない」という、なまぬるい信仰
では、とても患難時代に対応できません。

私たちは、七つの教会に書き記るされたように、
「勝利を得る者」となって、21章7節に記され

ている
「勝利を得る者は、これらの者を相続する。わたしは彼の全能主となり、彼はわたしの子

となる」
とあるように、死に至るまで忠実であるべきです。これが黙示録が書かれた目的なの

です。ですから、私たちは
「生ぬるい信仰」では、患難時代を通っていくことが出来ませんので、

本気で全能主を第一とする信仰を確立して、今の時から信仰の行ないを通して、信じる心を表わ

して行く
生き方をして行くべきです。このメッセージが七つの教会に宛てられたメッセージです。

だから、この事を「耳ある者は御霊が諸教会に言うことを真摯(しんし)に受け留める」べきです

(3:22)。すなわち、 信じている者としての、
信じるが故の行動を表して行くということ

です。先週も学んだように、信じる行動を表して行くと、その経験によって、信じることに自信

が持てるようになり、「間違いなく聖なる全能主はおられる。この御方に従って行くことは、

自分にとって間違いの無い生き方だ」と確信を持てるのです
。ただ聞いたメッセージを心の中に

留めているだけでは、信仰の確信は持てません。
「自分が信じているお方に、信じている行ない

をして従う」という行動を表して、初めて自分自身の確信に繋がるのです。
この為に、私たちは

しばしば全能主から試みを受けます。例えば、3:19にありますように、全能主は「愛している

者を叱ったり、()らしめたり」なさいます。実は、そういう時こそ、私たちが全能主に従うか、

従わないかを表して行く機会なのです。どういうことかと申しますと、私たちは叱られたり、()

らしめられたりしている時に、「これ以上叱られたくない。こんなに()らしめを受けるなら、

信じない方が良かった」と、無意識のうちに自分自身を守って心を閉じてしまいます。それは、

全能主よりも自分を愛していることの表れであり、全能主から「お前はどこまでも自分中心で、

わたしに従って来る心がないのだな」と見られてしまいます。
逆に、叱られたり懲らしめられたり

している時に、遜って下手に出て、
「その通りです」と心を開いて認めて行くならば、私たちは

全能主に壁を作ることはありません。
それは、全能主の考えを第一にし、自分を第一にしない心の

表明だからです。これが、
自分の思いではなく、全能主の思いを優先して行く信仰の秘訣です。

全能主は日々その信仰の心を見たいと願い、「信じたのならそれを表して行きなさい」と言われ

ているのです。しかし、信じたにもかかわらず、いつまでも叱られるのが嫌で全能主から遠ざ

かって行くなら、それは「全能主を信じている」とは言えません。だから、この冷たくも熱くも

ない、生ぬるい信仰では、いつも自分の感情を優先してしまうので、「悔い改めなさい」と言わ

れているのです。このように、自分の感情には捕らわれず「どんなことがあったとしても、全能主

を第一に考え、全能主の考えに従って、全能主が言われた通りにして行く信仰」を、
今すると決め

て行動するのです。これによって、患難時代にも、全能主に従うことが当り前となり、勝利を得る

信仰者となるからです。
すると、そこに全能主の栄光が表れ、私たちの内にも幸いがやって来て、

平安と確信に満たされます。


(結)どうか、私たちは「今する信仰」を生涯通しましょう。これが、「勝利を得る信仰者となる

秘訣であり、 聖なる都に入る秘訣です。」
そして、このメッセージが黙示録の書かれた目的なの

ですから、私たちは、人生の 総仕上げとして患難時代を通って行くのです。この患難の中で、

私たちを陥れようとするルシファーの策略も有ります。私たちは、それを見抜き、
「私は一時の

助けを受けるために、自分の信仰を売るようなことはしない」
という意志をはっきりと表わし、

「勝利を得る者」としての証しを残して行くのです
だから、(おび)えて一歩も踏み出そうとせず、

「自分にはできない」と言って逃げて行くようではいけません。どんなことがあっても、「本当

にできるだろうか」と思うようなことが起こって来たとしても、「自分の考えではなく全能主の

考えに従う」という、信じる者として当たり前の心を持って、今のこの時から、全能主に忠実で

ある信仰の行いを表わし、それが私たちの「当たり前の事」となるように、信じるが故の行動を

表して行こうではありませんか。

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