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2021年3月28日

全能主との繋がりを生涯持ち続けて行く

ヨハネの黙示録2:8~11


(起) 黙示録2章10節の御言葉に「見よ。悪魔が、あなた方のうちのある者を試すために、

獄に入れようとしている。・・・しかし、死に至るまで忠実でありなさい」とありますので、
「悪魔

の騙しに気付いて、悪魔を退け、全能主との繋がりを生涯持ち続けて行くこと」
を学んで行きたい

と思います。



(承)さて、10節に書いてあるとおり、悪魔は患難時代の中で私たちを試すために、あらゆる

苦難に遭わせます。しかし、そのような中でも、「死に至るまで忠実」であるならば、私たちは

「勝利を得る者」となり、第二の死(ゲヘナ)によって滅ぼされることはありません。だから、

「黙示録は決して私たちを脅して不安にさせる書ではなく、むしろ、
私たちが『勝利を得る者』

となって、新しい天と新しい地に入り、しかもその中の『聖なる都』に住むことが許され、

『全能主が人と共に住み、人は全能主の民となって人の目から涙を全く拭い取って下さる』


という、最高の幸いを得るように記している書」なのです。ですから、私たちが「勝利を得る者」

となることは、全能主の願いであるのです。



(転)それでは、全能主が私たちを「勝利を得た者」として天に召された時、いったいどのような

交わりを願っておられるでしょうか? それは、
「全能主が心と心の触れ合いを求めて人を創られ

ました」
ので、心が全く開かれた、心と心の触れ合う交わりを願っておられます。心の開かれた

交わりとは、「相手を信頼し、相手を尊敬しつつ、自分は嘘のない
善意の心で近づき、交わりを

することです。」この心の無い人は、相手を警戒し、自分が傷つくのを恐れて、自分の罪を隠して

いきます。
そういう人は、自分が卑しめられるのを極度に恐れています。しかし、全能主との

交わりの場合、まず自分の罪をはっきり認識し、自分を守らず、全能主に全てを(さら)け出して

近づくこ
とです。そうすれば、私たちがどんなに罪人であっても、罪人であるその事実を認めて

いる者を、全能主は決して軽しめられることはありません。なぜなら、全能主は、御使いとの触れ

合いではなく、人間との触れ合いを求められたので、
あえて罪人を贖われたのです。ですから、

私達の罪は、キリストによって全て贖われており、その事を前提として、全能主は私たちと

交わって下さるのです。それなら、私たちは全能主を恐れず、全能主の懐の心の中に飛び込んで

行くべきです。
すなわち、私たちは
「怒られることを恐れて、身を引いていてはいけない」

です。むしろ、「
罪人は指摘され、怒られるのは当たり前のこと」ですので、へりくだり、全能主

にどこまでも信頼して、心を開いていくのが正しい交わりの道です。
自分を守っていては、全能主

を信頼していることには成りません。全能主は、自分を守る人を一番毛嫌いします。なぜなら、

その人の罪を完全に贖っているにも関わらず、(ひね)くれた心を持って自分の罪を隠そうとする

からです。それは、憐れみ深い全能主の心を逆なでする心です。だから、今の内に、その(ひね)くれた

心を砕き、素直な心を表わして、心を開いた生き方を実行して行くべきです。それは「欠点を

すべて無くせ」ということではありません。実際、私たちの現実は、心の弱い者で、意志の弱さ

や、触れられたくない弱点を一杯抱えています。ですから、その部分を全部さらけ出してしまえ

ば、メンツを失い、自分の気位(きぐらい)が傷つけられ、生きていく気力も失います。だから「それは嫌だ、

出来ない。」と思ってしまうのです。しかしながら、全能主は、元々私たちの心にある「言いたく

ない部分や、隠しておきたい部分」も、全て知っておられますので、隠しても無駄です。それ

なら、私たちが全能主と付き合う時には、虚栄を張ったり、自分の正しさを見せようとする必要は

ありません。全能主の前では、自分の弱さや欠点も何もかも全部認めて、さらけ出して行けばいい

のです。それが、心と心の触れ合いになります。なぜなら、それが私たちの正直な罪人の姿で

あり、その事実をへりくだって認めて行くことが、キリストの贖いを信じて救われた者の生き方

だからです。全能主は全てを承知の上で贖って下さった御方です。
だから、自分が罪深い者である

という事実を隠す必要はありません。
すべてを、はっきりと認めて行けば、全能主は心を開いて

下さいます。
全能主は、私たちの心の中にある弱さも、何もかも全て見透かしておられる方です

が、そのことで、私たちの弱さを逆手にとって責めたり、軽んじられたりすることはありません。

又、当然我々が罪をあからさまに告白したからといって、それで罠にかけるとか、馬鹿にすると

いうこともありません。
逆に、私たちが自分の内にある(やま)しい思いや、自分の弱さを隠さずに

認めてさらけ出すならば、全能主は、その人を信用し、「贖って()かった」と喜ばれるのです。


それは何故かと申しますと、「悔いし、砕かれた魂を軽しめない」御方だからです。だから、イエス

様の贖いの故に、私たちは罪人である事を前提として、全能主と交わりを持つのです。それなら、


こんな私たちにもイエス様の贖いがある以上、全能主を(こわ)がる必要はありません。また、自分の

義を立てて義人ぶる必要もありません。ただ、全能主の前に常に心を開き、心と心の付き合いを

させて(もら)うのです。それが、救われた者の天での生き方でもあるのです。
そしてまた、全能主に

対してそれが出来るのなら、クリスチャンは地上においても、人と交わる時には、やはり、心と心

の触れ合いを心掛けて交わるべきです。それは未信者には通用しないかも知れませんが、それで

も、自分を誤魔化して生きて行くより、正直に弱さを認め、
善意の心で人と接して行くのが、

クリスチャンの生き方です。そういう生き方を地上でして行くことが、「
クリスチャンの信仰の

行い
」なのです。ところが、このようにメッセージを聞いても、なかなかその通りに出来ないのは

何故でしょうか。
それは、悪魔の影響を受けているからです。悪魔は、私たちが「全能主と嘘の

ない心の触れ合いができないように妨げて来る」のです。
即ち、悪魔は「私たちが恥をかくことを

嫌わせ、嘘をついてでも自分を守らなければ、この世では生きていけないと脅かし、恥さらしの

生き方など出来るわけがない」と(たた)み込んで来るからです。しかし、
もし私たちが、そのような

悪魔の考えに乗っかっていたら、患難時代でも必ずその部分が出てきます。「
私たちは、一時の

苦しみから逃れるために、悪魔の甘い言葉に乗っかったならば、自分の信仰を売ることになり

ます。
」それが悪魔の狙いです。だから、自分の身なんか、どうでも良いのです。まさに、

「見よ。悪魔が、あなた方のうちのある者を試すために」(2:10)とあるように、悪魔は、

私たちが全能主と繋がらないように、いつも私たちを試し、(だま)そうとしています。



(結)どうか、「自分には心と心の触れ合いができない」という、ひがんだ思いを捨てて、悪魔

の騙しを見抜いて下さい。私たちの本音は、全能主に心を開いて、「心と心の触れ合いをしたい

し、正直でありたい」と願っているはずです。それなら、この地上にあってもその心(つらぬ)いて

行ったらいいのです。しかし、それでも悪魔の試みは、死ぬまでやってきますが、
全能主の前に

嘘のない心と、心の触れ合いを大事にして行く生き方を習慣として身に付ければ、悪魔が働く患難

時代でも「勝利する者」となるでしょう
こうして、自分が定めたその道に勇気を持って歩み出せ

ば、私たちは患難時代で「勝利を得る者」となれます。
どうか、悪魔の騙しに気付いてそれを

退け、心と心の触れ合いの中にあって、全能主との繋がりを生涯持ち続けて行こうではありま

せんか。

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