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2020年2月28日

ただ、()すべきことをしたに過ぎません』

第Ⅱコリント5:11~17

(起)第Ⅱコリント5章17節の御言葉から、「『私は、役に立たないしもべです。ただ、()

べき事をしたに過ぎません』という気持ちで、新しい生き方を始め出すこと」を学んで行きたい

と思います。



(承)さて、17節を見ますと、「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく創造された者で

す。古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくなったのです。」とあります。しかし、

この御言(みことば)は、私たちの現実とは、ほど遠いものの様に思えます。なぜなら、実際には一つも新しく

創造されたところがなく、また古い自分が過ぎ去ったようにも見えません。なぜなら、自分自身

の肉の現状は、信じる前とほとんど変わらないからです。むしろ、逆にクリスチャンになって

から、自分の罪深さを思い知らされ、この御言(みことば)のように、「見よ、すべてが新しくなったのです」

とは、到底思えないからです。しかしながら、この御言は全能主の御言(みことば)ですから、全能主の側では

実現しているのです。なぜなら、「過ぎ去った」という御言葉は、アオリスト形の時制で記されて

いますので、ギリシャ語の時制のアオリスト形は、現在の状態の如何(いかん)に関わらず、過去に起こった

ことを記している時制です。だから、キリストに在ってこの御言葉は実現しているのです。という

ことは、クリスチャンにとって、すべての人は「現在の状態がどんなに罪深く思えても、キリスト

の贖いの故に、すでに古いものは過ぎ去った」と語られているのです。しかし、はっきり言って、

私たちの現実は、古い癖や古い性質がそのまま残っています。だから、それを実感することはでき

なくても、
「古いものは過ぎ去った」ということを信仰によってそれを受け留めたならば、その

人にとっては、もう古い自分に捕らわれることなく、「すべてが新しくなった」という、
新しい

生き方を目指して行っていいのです
。ということは、キリストの故にクリスチャンは、「すべてが

新しくなった」という人生が始まったことになります。聖書には、このような古いままの自分と

新しくされた自分の二面性の事実が真理として記されています。ですから、このことを受け留め

た上で、クリスチャンは皆、「古いものは過ぎ去り、新しくされた」という歩みをしていくので

す。



(転)では、具体的に「すべてが新しくなった」という生き方を、どのようにしていけばいいの

でしょうか。それは、自分に対して生きるのではなく、全能主に対して生きて行くことを始め

出すのです。言葉を換えると、
「自分の身勝手な利益のために生きるのではなく、全能主が満足

されることのために生きて行く」
ということです。そのことは、同じ第Ⅱコリント5:15に

「キリストがすべての人に変わって死んだのは、生きている人が、二度と自分たちのために生きる

のではなく、彼らのために死んで甦らされたお方のために、生きて行くのです」
と、はっきり

記されています。ですから、私たちの新しい生き方とは、私たちの生まれ持った性質や能力で成果

を上げて、認めてもらおうとする生き方ではなく、全く新しい発想で、「キリストのためなら何で

もやります」という生き方を始め出すのです。ところが、何でもやりますといっても、出来ない

自分もかかえています。しかし、私たちは、自分ができないと思うことや苦手意識を持つことに

は、初めから手を付けようとしません。しかし、いくら能力がないと言っても、人それぞれ自分の

得意分野がありますから、自分ができることや、自分の好きなことについては、何の苦もなく取り

組むことができます。だから、キリストのためにやりたいという自分の気持ちが自然に出てくれ

ば、キリストのためなら、どんなことでもチャレンジして、キリストに喜ばれる生き方を為そう

と思うのです。それは、単なる自己満足から出た「感」ではありません。私たちが
祈りをする

言うことは、全能主に
答えをもらってから行動に移すことです。その答えは、必ず与えられます。

それは、聖書の御言葉や、御霊の声や摂理等によって、はっきり分かるからです。だから、
自分は

キリストのために何をすればいいのか
祈って行く内にはっきりします。私たちは、もう自己満足

のために生きるのではありません。何をするにも動機がキリストのためであることを確信して行く

べきです。だから、もう私たちは、昔ながらの自分の感による発想で生きて行くのではなく、


はっきりと全能主のための目的を持って動き出すことです。だから、「全能主の御心を行わせて

ください」と祈り始めるのです。それが分かったら、一生懸命やらせてもらうのです。そして、

それを為し終えた後は、「
私は役に立たないしもべです。為すべきことをしたに過ぎません」と、

全能主の前に頭を下げるのです。なぜなら、全能主は、その誇らない姿こそ、好感をもって見て

下さるからです。たとえ為すべきことが十分にできなかったとしても、それを自分自身で認めて

いるなら、その者には全能主の方から励ましがあります。
それが、古いものは過ぎ去った者の生き

方、すなわち、新しく創造された者の生き方です。


(結)こういうわけですから、私たちは生まれながらに持っていた自分の能力や考え方で、自分が

褒められ、認めてもらう為に生きて行くのではありません。それは、社会人として生きて行く場合

でも同じです。
動機が、すべて全能主のためであるなら、淡々と仕事ができます。人に()びる

こともなく、卑屈になることもありません。私たちは、聖書に書いてある通りの感覚で歩み出し

ていくのです。だから、ただ、全能主の御心を行いたい一心で、「どうか、役に立たないしもべ

ですが、少しでも為すべきことをやらせて下さい」という心で、新しい生き方を始め出そうでは

ありませんか。
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