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2020年2月14日

主に仕えて行く道が閉ざされないために

第Ⅰペテロ1:3~9


(起)第Ⅰペテロ1章3~5節の御言葉から、「主に仕えて行く道が閉ざされないために、

魔物を封印して行くこと」を学んで行きます。



(承)さて、3節を見ますと、「私たちがイエス・キリストを信じたことによって、キリストが死者

の中からの復活によって、私たちを新たに生れさせ、生ける望みの中へ入れて下さいました」と

あるように、クリスチャンは、「
新たに生まれる復活の世界」があり、そこには、「生ける望み

が用意されている
」ということです。その生ける望みとは何かと言いますと、4節にあるように

「天に貯えてある、朽ちず汚れず、消えることもない
相続財産を受け継ぐ望みです。

この相続財産は、永遠に朽ちない全能主が用意してくださった聖なる環境と、罪のない命の幸い

です。罪があっては幸いがありません。その幸いに預かる者たちは、罪が全く取り去られた状態に

なるということです。だから、私たちの罪はイエス様の十字架の血潮によって贖われ清められたの

です。しかし、私たちはその為に何か良きことをして清められた訳ではありません。また何かを

乗り越えた訳でもありません。ただ自分が犯した罪を認めて、イエス様がして下さったことを信じ

ただけです。しかしながら、
いくらイエス様を信じて生ける望みが与えられたと言っても、心の中

で文句を言い、反発・反抗するような、魔物を抱えた心は依然として存在しています
。こんな自分

が本当に救われて、天の相続の預かれるのでしょうか?しかし、それは5節に書いてあるように、

「終りの時」に救いは実現するものとあります。ということは、私たちがこの地上で命を持って

いる間は、私たち自身の性質は何も変わらないということです。私たちは、「
救いという世界を

知っても、なお魔物を抱え込んでいる
」という現実を、日々嫌と言うほど思い知らされているのが

現実です。



(転)では、その事実を認めた上で、私たちは肉体を脱ぎ去る時まで、どのように生きて行くべき

でしょうか。イエス・キリストを信じた者として、「全能主を中心に生きて行きたいという思い」

と、「反発・反抗する魔物の思い」が同時に存在している事実をどう処理して行ったら良いので

しょうか。それは、
魔物の声を封印することです。「イエス様を信じ、全能主に従って行きたい」

という気持ちを持った者なら、誰でも魔物の思いによって支配されたくはありません。しかし、

この魔物の声を封印することは、実に難しい課題です。なぜなら、自分が意識しない中で、日常的

に魔物の心は出てくるからです。それは、自分が責められたり、自分の思い通りにならないことが

起こると、「逆らってやれ」という、魔物の声が心の中から飛び出して来るからです。せっかく

今まで抑えていた魔物が、飛び出してしまうと、もう取り返しがつきません。全能主に背を向けて

しまうこともあります。舌は魔物です。この事実は、信仰を捨てるということにも成りかねま

せん。それをクリスチャンがしてしまうのです。ですから、背教に繋がるような魔物の声は、絶対

に封印しなければなりません。その封印は大人のクリスチャンなら出来るはずです。なぜなら、

(にが)々しい魔物の声に騙された経験を味わって来た人は、もう、その声には二度と騙されたくない

と思うはずだからです。人は自分が本当に嫌と思う事からは離れます。しかし、悪いことでも、

それを愛している事柄には、なかなか離れられません。人は、自分の心に正直ですから、
魔物の声

を本当に嫌ったならば、離れることはできます。
全能主は、「完全に封印しなさい」とは言われて

いません。それは、完全にはできないからです。魔物が完全に取り去られるのは、肉体を脱ぎ捨て

て救いが実現する「終わりの時」に起こる事柄だからです。それまでは、魔物を抱えたままで、

慎みを持って生きて行かなければなりません。第Ⅰペテロ1:13を見ますと、「あなた方は心

を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの時にもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」

とあります。慎みというのは、言葉を換えると、「ほどほど」にということです。なぜなら、自分

自身の肉や欲望を完全には捨て去ることはできませんが、それを(きら)えば、そこから意識が

変わって来るからです。
今まで心の(おもむ)くままにしていた事が、意識を変えると魔物の心が

出て来た時に、その声を嫌うようになり、封印して退ける様になります。
これが、大人になった

信仰です。
この意識に立つと、クリスチャンの信仰は変わります。それは自分の思いが中心では

なく、全能主の思いが中心になって来るからです。即ち、全能主の国と、全能主の義を中心に考え

るようになります。私たちは、今は魔物を抱えていても、(げん)に御国に招かれ、相続財産を受け

継ぐ生ける望みを頂いているのですから、魔物の声は封印して退け、慎みを持って、ひたすらキリ

ストの再臨を待ち望むのです。これが、私たちクリスチャンの地上での生き方です。



(結)私たちの心の中には、「これを出したら終わり」という、実に恐ろしい魔物が存在してい

ます。それは、ちょっとした刺激で魔物が飛び出し、全能主に仕えて行く道を閉ざしてしまうもの

です。だから、これだけは絶対に封印し、慎みを持って離れなければなりません。先程も申し上げ

たように、慎みとは、「ほどほどです。」私たちは、聖書に書いてある律法を完璧に守って生きて

行くことはできませんが、だからといって律法を無視していいということではありません。律法

は、罪人の行いにブレーキをかけさせる意味があります。だから、ほどほどです。ほどほどを越え

てしまうと、全能主に仕え て行く道を失ってしまいますから、それだけはあってはなりません。

だから、全能主に仕えて行くことができなくなってし まうような自分自身の性質を積極的に封印

して行くべきです。
そうすれば、私たちにも天での生ける望みが待っています。

どうか、この生ける望みのために、主に仕えて行く道が閉ざされることがないように、魔物を封印

して行きましょう。

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