教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


                                                                                                                              2021年12月5日
信じ続けて行く努力

ピリピ人への手紙3:9~16


(起)ミュラーさんのように、「全能主を本気で信じて行く信仰の決断をし、聖霊の油注ぎを頂い

て、全能主の集大成の為に働いて行くこと」
を学んで行きたいと思います。


(承)さて、10~11節を見ますと、「私はキリストとキリストの復活の力とを知り、キリスト

の苦難にあずかって、キリストの死と等しくなり、何とかして死者の復活の状態に達したいのです

とあります。本来で
あれば、イエス・キリストの贖いによる救いは、アオリスト形ですから、パウロは、

「既に復活の状態に達して
いる」と言える筈です。それなのに、何故パウロは「何とかして死者の

復活の状態に達したい」
という言い
方をしたのでしょうか。それは、本物の「信じる」とは、単に

「信じます」
と表明することではなく、「全能主に従い
通す生涯」を全うすることだからです。

ですから、これは、パウロが信じ通すという献身の決意表明
です。同じように、私たちにとっても

救いはアオリスト形ですから、既に私たちの内にも復活の状態は
実現しています。しかし、私たちは

死ぬまで罪人です。ですから、キリストに従い通す献身の心に対して逆らう心もあるし、迫害を受けたり、

苦しい目に遭ったりすれば妥協してしまう弱さもあります。しかし、イエス
・キリストの贖いによって

救いを頂いたのですから、「何とかしてこの信仰を全うしたい」というのが、
パウロと同じ私たちの

献身の心
です。そして、「その心を全うするために努力している」と彼は書いています
。だから献身の

生涯というのは、ある意味で、信じ続けて行く努力なのです



(転)では、信じ続けていく努力を実際に行っていったのは誰でしょうか。それは、ジョージ・ミュラー

さん
です。ミュラーさん(1805~1898年)は、孤児を育てて行く必要性を感じ、その使命

を全能主から受けました。しかし、現実問題、それを実行するのは大変な時代でした。19世紀の

当時は、
ヒューマニズムと、自由主義神学の嵐が吹き荒れ、「神は必要ない」という考えが広がって

行った時代です。また、産業
革命の真っ只中で、貧富の差がひどく、奴隷のように働かされる時代でし

た。ですから、牧師として自分の
子供を育てて行くだけでも四苦八苦していた環境の中で、他人の

子供を集め、宿泊施設を用意し、
食べる物を与え、着る物も与えて、学びもさせる…となったら、

それはミュラーさんにとって、自分の能力を
はるかに超えた使命でした。そこで、ミュラーさんは

どうしたかと言いますと、「孤児の父は全能主である」という聖書の御言葉を示され、「全能主が

必要な物を与えて下さり、全能主が孤児たちを育てて下さる」
と信じて、孤児院を始め出したのです。

実際には、「目に見えない全能主がいつも天からお金を降らせて
下さるなんて、そんなことが本当に

あるのか?」
という不安もあったに違いありません。しかし「全能主が孤児たちを育てて下さる」

と聖書に書いてある以上、それを否定して後ろを振り向いたら、孤児たちを
見捨てることになり、

ミュラーさん自身の信仰も崩壊することになります。結局は「自分の出来ることしかやらない」と

いう世界だったら、聖書を信じた意味がありません。
だから、「先は分からないが、必ず全能
主が

やって下さると信じて始め出す」
というのが、ミュラーさんの信仰だったのです。これはものすごい

賭けです。現実に始め出した時、朝食のパンがない、という時もありました。しかし、彼は自分で

走り
回ってパンを集めたり、借金をするということは絶対にしませんでした。どこまでも、「孤児

の父は全能主だから、全能主が食べる物を下さる」
という信仰心を貫き、それを本気で信じて、

祈って待ったのです。
すると、全能主はちゃんとパンの時間には、パンを届けて下さったのです。

そういうことが、一回だけでは
なく、二回、三回と続きました。しかも彼は、どんなに苦しい状況で

も、バザーで募金運動することを断り、ただ全能主によって育てて行くことを貫き通しました。

そして、彼は全能主を信じて行く気持ちを決して離しませんでした。これが、ミュラーさんの

「信じ続けて行く努力」
だったのです。私たちも、このミュラー
さんの信仰に習って信仰を全う

したいのです。
そのためには、パウロさんも言っているように、後ろのものを忘れ、前のものに

向かって一事に励んでいかなければなりません。何故なら、私たちは罪人ですから、全能主を信じ

て勝利を味わった経験よりも、自分自身の肉による失敗の経験の方が多いからです。
しかし、そう

いう後ろの失敗に、後ろ髪を引かれていては信仰が萎えてしまいます。それは忘れていいのです。

でなければ、いつまで経ってもミュラーさんのように、全能主を信じ続けて行く道に歩み出すことは
出来

ません。



(結)
私たちは、自分の力には限界があります。だから、いつも力不足を痛感します。だからこそ、

私たちは「全能主を信頼し全能主に力を頂いて全能主の力」で働きたいのです。そして、最後

まで
懸命に努力して、全能主を信じ通し、目標を目指して走りたいのです。その目標は、何とかして、

キリストの
復活の状態に達することですそして、その信じ続けて行く努力の具体的な例は、ミュラー

さんの信仰に
習って、本気で全能主を信じ通し、聖霊の油注ぎによって、全能主の集大成の為に使って

頂くことです。
この決断をするのは、明日ではなく今です。たとえ自分自身の中にいろいろな心の葛藤

や不安があったとしても、決めるのです。その決め方は、肉による決断ではなく、御霊様の導きと、御霊

様の声と、御言葉に
よって、まず心を砕いて「分かりました。そうします」と、心を定めることです。

どうか、一人一人がこの決断を
して、全能主を信じ通して行こうではありませんか。

 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室