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                                                                                                                              2021年11月28日


ミュラーさんのように本気で、全能主を信じて行く決断

使徒の働き21:17~25

(起)自分の迷いの自我を砕いて感情から離れ、ミラーさんのように本気で、全面的に全能主を信じて

行く
と定める決断を、今して、
全能主を第一にしてお仕えして行く事」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、パウロはこれまでの異邦人伝道の活動報告をするために、エルサレムに戻って来ま

した。
そして、パウロの話を聞いた人々は、喜んで主を誉め称えました。ところが、イエスを信じた

ユダヤ人の
中で、律法に熱心な人たちが、パウロについて伝え聞いていることが、「パウロは、異邦人

の地域に住んで
いるユダヤ人に対して、『子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな』と言って、

モーセに背く事を
教えている」という噂だったのです。そこで、エルサレム教会の主立った人々が、

パウロに助言して「ここには、誓願を立てている者たちがいます。そこで、彼らを連れて行って、あなた

も彼らと共に身を清め、彼らの頭を剃る費用を出してやって下さい。そうすれば、あなたについて噂され

ている事は根も葉もない事で、かえってあなた自身も律法を守って正しく生活をしていることが、皆に

分かるでしょう」
と言いました。ここを読むと私たちは、「やはり律法は守るべきものだ」と思わされて

しまいます。しかし、実は真理には二面性があるのです。どういうことかと申しますと、まず一面として、

パウロはローマ書を通して、「キリストは律法を終わらせられた」という真理をはっきりと語っています。

ですから、これは、ユダヤ人にも異邦人にも当てはまる事ですから、この真理から考えるならば、パウロ

地方に行って、「キリストは律法を終わらせられた」
のですから、「もう律法を守る必要はありません。

子どもに割礼も施す必要もありません」と言ったとしても、間違っていませんし、キリストに反する

ことではありません。
また、二面性のもう一面として、ユダヤ人の信者たちは、日々の生活の中で

律法に基づく習慣がありました。だから、たとえ律法の一部を守ったからといって、罪だということでも

ありません。
はっきり言って、異邦人であっても、ユダヤ人であっても律法を守りたい人は守ってもいいし、

守らなくても裁かれることもありません。なぜなら、キリストが律法を終わらせられたので、律法から

解放されたからです。
ですから、異邦人に対しても、「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行

とを避け、これら以外に何の負担も負わせない」
と、あえて言っていますが、これは、ユダヤ人たちを

(つまづ)かせないための配慮の付言(ふげん)だったのです。ですから、このような事は、一面で考えたら混乱

しますが
、真理の二面性があると考えたら、どちらも否定する必要はないのです。ですから、パウロ

は、Ⅰコリント9:20~21で「私はユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように

なりました」
と、はっきり言っています。それは、イエス様が全ての人を律法から解放して、自由

にして下さったからです。
そして、異邦人に関しては、彼らは元々律法に縛られてはおらず、最低限

「これらは避けなさい」
と言われた事柄に関して
さえも縛られてはいないのです。ですから、本来ユダヤ

人も、異邦人も、イエス様によって律法から完全に解放されているため、何をどのようにしても自由

であったということです。しかし、「その自由を肉の性質が働く機会とせず、愛を持って互いに仕え

なさい」
というのが、キリストのメッセージなのです。



(転)では、同じような立場にある私たちにとって、大事な事とは何でしょうか。それは、自由を

得た
私たちの心の中に、何を入れるかに懸かっています。もし、心の中に「自分の思い通りにしたい」

という自我を入れ
たままなら、律法からの解放は、放縦な自分が現れるという結果を生むだけです。

しかし、自我を砕き
「自分の思い通り」ではなく、「全能主を第一にしていく」という心が入って

いたなら、
それは御霊の実となって現れます人間は罪人ですから、地上にある限り、当然肉の実を

結んでしまう弱さが一杯あります。しかし、「それではいけない」ということではなく、ただ、罪は罪と

して認めてへりくだって行く姿勢があるなら
、キリストのアオリスト形の救いがありますので、それで

良いということです。ということは、異邦人もユダヤ人も共通して言える大事な事は、罪人の人間が贖い

を頂いたという恵みの故に、罪を犯した時には、「罪を罪として
認めようとしない自我を、へりくだって

砕くこと」
です。即ち、自分は罪人だということを正直に自覚し、「もう自分じゃない。全能主を中心

に考え、全能主が主人公だ」という考えを持って、「どこまでも全能主を
第一にして行く」という

心に切り替えることです「その心を持って、信仰を全うして行けばいい」というのが聖書の結論です。

確かにパウロは異邦人への手紙の中で、エルサレム会議で決議された事以上のことも
たくさん戒めとして

書き残しています。しかし、それが律法から開放された教理への矛盾だとはなりません
なぜなら、

キリストの救いを逆手にとって、放縦な生活をすることは、全能主の御心ではないからです。


しかし、全能主を第一にする心を持って行くならば、「全能主がそう言われるなら、そうしていこう」

という素直な読み方になっていきますので、キリストの律法を守っていくことになります。これが、

へりくだりです。ですから、私たちにとって一番大事な事は、「自我を砕き、全能主を第一にする心を

持つこと」です。


(結)こういうわけですから、「私たちは全能主の前に、自我を砕いて、自分を明け渡すなら、それで

良い
ということです。しかし、そこをいい加減にしていては、本当に信じたことにはなりません。

また、この決断を
先延ばしにして、何の良きことが起こるでしょうか。全能主に本気で仕えていこう

という思いがあるなら、
直ちに決断して、全能主を信じて従って行くと定めるべきです。この定め

は、自分自身に対する否定が前提条件です。それは一部ではなく、100%自分が罪人だということ

を認め、自分を徹底的に砕いて
否定することから始まります。そうしたら、聖書が言わんとする真理が、

心の中に自然に入ってくるでしょう
また、全能主に信頼されて使って頂けるようになるでしょう。

どうか、「自分の迷いの自我を砕き、感情から
離れ、ミラーさんのように本気で、全面的に全能主を信じて

行く
、今定める決断をして、本気で全能主に明け渡して行きましょう。


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