教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2020年9月6日

「砕かれた魂は幸い」という御言葉に土台を置いて

マタイの福音書5:17~20


(起)マタイの福音書の山頂の垂訓を通して、「魂の砕かれた者は幸いだ」(3節)という御言葉

に目を留め、そこにクリスチャンとしての平安を見出して行くことを学んで行きたいと思います。



(承)さて、マタイの福音書5章の山頂の垂訓の前半16節までは、「幸いなことよ・・・」と

あるように、クリスチャンが天で受ける幸いな報いについて語られていますが、後半になると、

急に戒めが入ってきます。そこで、まず前半から見て行きますと、「幸いなことよ。魂の砕かれ

た人々」とありますが、これは「人間の心の内側にある裏腹な思いに打ちのめされ、魂の貧しさ

(うち)(ひし)がれた人々に、あえて幸いな者よ」と呼びかけられています。次に6節を見ますと、

「幸いなことよ。義に飢え渇いている人々」とありますが、これも「自分自身の内に潜んでいる

魔物の影響を受けたくない」と思いつつも、「罪に打ち勝てない人間の(さが)にうめき、義に飢え

渇いている者」のことです。それが何故幸いなのかと言いますと、全能主は、パリサイ人や律法

学者たちのように、自分の心の内側の罪を棚上げして誤魔化し、外側の体裁(ていさい)ばかり(つくろ)って

「人前でラッパを吹き鳴らす者」を嫌らっておられるからです。むしろ、自分の心に潜む魔物や

罪について自覚し、苦しんで、それでも本物の心を追求しようとしている者に心を向けられて、

天において報いを与えようとして下さっているからです。これが前半の内容です。


 
ところが、後半になると、急に戒めが入ってきます。「右の目が罪を犯させるなら、それを

えぐり出して捨てなさい」(29節)というような内容がことごとく語られています。これは、

先程見て行った前半部分とは全く違う世界、いわゆる律法の世界です。これを求められたら、私

たちは完全にお手上げです。なぜなら、心の内側の清さを持たなければ受け入れられないからです。

 ところが、イエス様が求めておられる心の内側の清さを達成するには、罪人の私たちには不可能

です。ということは、私たち人間は、モーセの律法どころか、イエス様の垂訓(すいくん)にはとても達し

得ない者なのです。しかし、「そういう者は天の御国に入ることは出来ません」とさえ言われて

います。なぜなら、「あなた方の義が律法学者やパリサイ人の義に優っていなければ、天の御国

に入ることはできない」(20節)と、イエス様は言われたからです。



(転)では、お手上げの私たちはどうすればいいのでしょうか?それは、使徒行伝13章を見る

時、語られた垂訓の真意が記されています。使徒13:39を見ますと、
「モーセの律法では義

とされることのできなかった全ての事について、信じる者は誰でも、 このイエスによって義と

されるのです」
とあります。すなわち、自分の努力では心の内側を清くすることの出来なかった

者でも、イエス・キリストの贖いによって義とされる道が開かれたということです。すなわち、

私たちでも、キリストの贖いを信じるとき、キリストが全うされた義の中に組み入れられると

言うことです。すなわち、イエス様の贖いがあるが故に、私たちは、ありのままの罪深い自分を

認めて行くことが出来るということです。なぜなら、イエス様が律法を終わらせて下さった為

(ロマ書10:4)、私たちが罪を認めても、「目をえぐり出せ」とは言われないからです。

これがクリスチャンにとっての救いであり、幸いです。ところが、イエス様の贖いを信じない人

たちは、何もかも全部自分自身で背負わなければなりません。しかし、罪の責任を自分で負おう

としても、そこには限界があります。例えば、「目が罪を犯させるなら、目をえぐり出せ」とか、

「手が罪を犯させるなら、手を切れ」と言われたら、誰一人その通りには出来ないからです。

それでも、
この世の中の教えは、「出来なくても努力しなさい。」「自分の弱さを認めてしまわ

ないで、自分の力で頑張りなさい」というのが、この世の律法主義の教えです。
全て、その人

自身の努力で解決するように仕向けられるのです。すると、出来ないことに関しては誤魔化す

しかありません。罪を誤魔化し、自分を誤魔化し、人前で体裁を繕い、自分の立場を守ろう

として行くのです。それがこの世の生き方です。世の中のほとんどの人は、イエス様の贖いを

知りませんから、自分の努力でやって行くという律法の世界しかないのです。そこが、この世の

人たちと私たちクリスチャンの大きな違いです。
私たちは、この世の人たちと同じように張り

合って行く必要はありません
この世の中で優位に立ち、人前で「自分はこれだけ出来ます」と

見せつけることが私たちの勝利ではありません。私たちにとっての勝利はその逆です。私たちは、

キリストによって得た救いがありますから、
砕かれた悔いし心を維持する事こそ、私たちの勝利

であり、平安です
なぜなら、私たちは、「幸いなことよ。魂の砕かれた人々。天の御国はあなた

方のものだからです」という、天に繋がる道を知っているからです。だから、私たちは、魂の

砕かれた者、嘆き悲しむ者、義に飢え渇いている者でいいのです。この世の人たちは皆、見栄を

張り合って、自分を誇ることに必死になっていますが、
私たちはそういう世界に入り込む必要は

ありません
私たちは、自分にやれること、やるべきことを、粛々とやって行けばそれで良いの

です。それが、山頂の垂訓でイエス様が解き明かして下さったメッセージです。



(結)どうか、この幸いをこれからこの世の中で味わって行こうではありませんか。すなわち、

パリサイ人や律法学者たちが幅を利かせている世の中で、「イエス・キリストの救いはこういう

ものだ」と弟子たちが語って行ったように、私たちもその心を持って、クリスチャンとして、

主の救いを証ししていくのです。世の中に出ると、この考え方は簡単に潰されそうになってしまい

ます。でも、その時に考えてみて下さい。もし、私たちがキリストの救い、全能主の存在を否定

したら、何が残るでしょうか。もしイエス様を否定したら、少なくとも自分自身の救いを失い

ます。そして、全能主を否定したら、私たちの命の出所を失います。私たちの命は、偶然で出来

るようなものではありません。物から進化したものでもありません。命の創造主は、存在するの

です。だから、私たちはイエス・キリストの贖いを本気で信じ、今その救いを味わっています。

キリストの贖いは永遠の事実ですから、私たちの
信仰は、永遠のものです。そこに、はっきりと

立つべきです。そして、その信仰を現場で表して行くのです。すなわち、
世の中に出た時に、

「魂の砕かれた者は幸い」という所に自分自身の土台を置けば、私たちは平安を失うことはあり

ません。
私たちは、この世の律法主義に合わせて行くのではなく、主の御言葉に合わせていくの

です。すると、平安を得ます。どうか、そこのところをはっきりと自覚して、クリスチャン

としての平安を味わい続けて行きましょう。
 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室