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2020年8月9日

『心を開いて(へりくだ)りを表して行く

ヨハネの福音書8:31~59


(起)「閉じる心を封印し、全能主の栄光の働きの為に、心を開いて(へりくだ)りを表わして行く

こと」を学んで行きたいと思います。



(承) さて、8章31節を見ますと、「イエスは信じたユダヤ人たちに言われた」とあります

が、この「信じた」という人々は、どういう人々だったのかと言いますと、五千人の養いを受け

た群衆たちです。彼らは、荒野でモーセがイスラエルの民にマナを与えたことを思い出し、イエス

様こそがモーセのような再来のメシヤだと連想し「この方こそイスラエルの国を再興して下さる

王だ」と思って、イエス様の跡に付き従って行ったのです。しかし、イエス様が語られたある

言葉によって、彼らの心は()めてしまいました。それは、6章51節で「わたしが天から

下って来た生ける パンです」と言われた時です。イエス様は、全能主から遣わされて来た

「命のパン」ですから、そのパンを食べれば、私たちは永遠に生きる者となります。また、

イエス様が流される血を飲めば、人間に与えられた契約が成就します。すなわち、イエス・キリ

ストの十字架による贖いを信じることによって、私たちは永遠の命に預るのです。この話は、

現代の私たちにとっては、聖書を読んでいますので自然に理解することが出来る事実です。

しかし、当時の彼らにとっては、「あれはヨセフの子で、近所にいたあの子じゃないか。ナザレ

出身で小さい頃から知っている」という感情が働き、イエス様をメシヤとして受け入れることが

出来なかったのです。そこで、最終的にイエス様は「あなた方はわたしを殺そうとしています。

それは、わたしの言葉が、あなた方の内に留まっていないからです」と言われました。「留まる」

ということは、心を開いてイエス様の言葉を受け入れるということです。イエス様は彼らに

「あなた方の父は悪魔だ」と言われましたが、もし、彼らがその言葉を受け入れ、その通りだと

認めることが出来たなら、彼らはイエス様に留まっていたことでしょう。ところが、彼らはその

言葉を聞いた瞬間に感情が爆発し、イエス様に反抗して「これは、ひどい言葉だ。誰がそんなこと

を聞いておられようか」と言って去って行きました。そして彼らは、「十字架につけて殺して

しまえ」と言って、主に逆らう者となったのです。



(転) さて、この反応は、恐ろしい魔物の心を抱えている、今日のクリスチャンも陥る反応

です。果たして、私たちの心には、「イエス様の言葉が、しっかりと根を下ろしている」と言え

るでしょうか。もし、イエス様の言葉が私たちの内に根を下ろしているならば、私たちの意識や

感覚は地上の感覚から離れ、全能主やイエス様に心が捉えられて、すっかり変わって行ってもいい

(はず)です。すなわち、自分の栄光を追い求めて行くのではなく、全能主の栄光を追い求めて

行く者になっていてもいい筈です。もし、そこに意識が切り替わっていたのなら、いくら怒られ

ても、また自分が否定されても、もともと、自分は罪人ですから、この世で自分の栄光を求めて

行く必要は無いと悟り、いくら自分自身の肉を指摘されたり、いじられたり、強く怒られたり

しても、心を閉じたり、反発したりすることはしないでしょう。
ところが、現実は、ちょっと

でも皮肉を言われたり、自分にとって嫌なことを言われたりすると、反射的に心を閉じてしまう

のです
これは一般的には誰でもやっていることですが、クリスチャンでも普段から当たり前の

ようにして心を閉じて、固まっています。しかし、それはユダヤ人たちが陥った罠だったのです。

彼らは、自分たちにとって嫌なことを言われた時に、心を閉じることによってイエス様を拒否し、

反抗心を表しました。私たちも、このまま心を閉じることを当たり前にしていたら、「イエス・

キリストを十字架につけろ」と叫んだユダヤ人たちのように、いつかきっと、イエス様を裏切る

者になってしまうかもしれません。考えたら恐ろしいことです。


(結)だから、
私たちは今の内にこの恐ろしい部分を封印しておかなければなりません。

私たちは生まれながらに真黒な罪人ですから、誇るものは一つありません。ただ「私は罪人です」

と胸を打つだけの者です。だから、人からバカにされても、心を開いて、聞いて行って丁度の者

です。それを嫌がる権利もありません。しかし、そんな罪人の私たちに対して、イエス様は

「わたしは誰も肉に従って裁かない」(8:15)と言って下さり、罪人を承知の上で、

「わたしの為に働きなさい」と言って下さるのです。ならば、私たちは心を閉じることを封印し、

どこまでも謙って従って行く心を持とうではありませんか。自分にとって嫌なことを言われても、

すぐ嫌な顔をして心を固めて反発したところで、その指摘が消える訳ではありません。ならば、

心を開いた状態で、皮肉を受け止めて行った方が、自分のためになります。なぜなら、心を閉じ

なければ、自分の心を変えて行けるからです。そして、「こんな者でも、全能主の栄光のために

使って(いただ)けるなら、使って下さい」と、前向きに主に向かって行けます。そんな私たちに、

初めて全能主は心を開いて、生ける水の川を(7:38)泉のように湧き上がらせ(4:14)、

聖霊の満たし与えて使って下さるでしょう。どうか、
心を閉じることを封印し、全能主の栄光

の為に働かせて(いただ)こうではありませんか。

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