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2020年8月2日

『全能主からの誉れを求めて

ヨハネの福音書5:41~47


(起)ヨハネの福音書5章44節の御言葉から、「人からの誉れを求めるのではなく、全能主

からの誉れを求め、全能主に繋がる悔いし砕かれた心を持って、信仰の生涯を全うすること」を

学んで行きたいと思います。



(承)さて、44節でイエス様は「あなた方は、互いに人からの誉れは受けても、唯一の全能主

からの誉れは求めていない」と言われました。それは、人にはいつも褒められたいという願望が

あり、人からの誉れを求めて生きているからです。特に家族や友人に対しては、その強い願望が

あります。それは、この世の中が全て競争社会の中にあり、勝てば親に褒められるからです。

もちろん、悪を行うより、褒められる生き方の方が正しいに決まっています。しかし、それは、

一歩間違えると、傲慢になって行きます。なぜなら、人は皆罪人です。だから、褒められたくて

も、魔物の心がなくなっていない以上、魔物の影響を受けます。だから、たとえ人からの誉れを

受けても、その人の死と共に全て消え去って行く空しい誉れです。ところが、全能主からの誉れ

は、死んでも消えることはなく、キリストの贖いを信じ受け取った者は、全能主の前に永遠に

価値あるものです。だから、私たちクリスチャンは、人からの誉れを求めて生きて行くのではな

く、全能主に受け入れられる者としての生き方をして行くのが、正しい生き方です。すなわち、

どこまでも罪人は、イエス様の贖いの御陰で救われたのですから、自分の義を(あらわ)して行く

のではなく、へりくだった心を持って、全能主の栄光を求めて行くのです。



(転)では、どのようにして、全能主の栄光を求めて行く生き方をしていけば良いのでしょうか。

それは、まず自分は罪人だということを、はっきりと理解して行くことです。確かに、クリス

チャンであれば誰だって「自分は罪人です」と言いますし、それを否定はしません。しかし、

現実に罪を指摘されたり、叱られることを喜んで受け入れることが出来る人はいません。むしろ、

叱られることを嫌がります。なぜなら、誰一人叱られて良い気分になる人はいないからです。

人は皆プライドの塊ですから、罪人だと分かっていてもそれを棚上げし、むしろ「自分はあれが

出来る」「これが出来る」と言って、人からの誉れを求めています。しかし、私たちはどこまで

行っても「救われた罪人」に過ぎず、イエス様を信じたからといって罪がなくなった訳ではあり

ません。私たちは、イエス・キリストが罪の代価を払って下さったことをただ信じただけであっ

て、自分で自分の罪を贖ったわけではないのです。だから、人から褒められるようなことをした

いと思っても、罪がある以上、失敗もするし、馬鹿で愚かなことをしてしまいます。その時に、

「そんなつもりはありませんでした」と、弁解し、叱られることを跳ね返すのではなく、「自分

が間違っていました。またやってしまいました。すみませんでした」と心から受け留めて、悔い

て行くべきです。なぜなら、罪人はそれしか出来ないからです。しかし、それさえせず、弁解し、

反抗心さえ出してしまうのです。そういう人は、社会でも軽んじられたり、(うと)んじられたり、

首を切られることもあります。それでも、人間はその(わず)かばかりのプライドを大切にするの

です。
ところが、全能主の前では、たとえ人から(さげす)まれても、悔いていく心を持った者には、

全能主はその者を
(さげす)みません。
なぜなら、罪人が「悔いし砕かれた心」を持つなら、そこに

救いがあるからです。だから、私たちは出来もしないのに出来るような顔をして見栄を張って行く

必要はありません。むしろ、罪人として精一杯、努力していけば良いのです。そして、叱られる

ことや指摘されることに対しては、反発したり逃げたりせず、正直に受け留めて行くことです。

その「正直な悔いし砕かれた心」を全能主の前に持っているなら、全能主は私たちを受け入

れ、
退(しりぞ)けることはされません。全能主と私たちはこの部分で(つな)がるのです。


(結)こういうわけで、私たちはこのようにして、どこまでも全能主に(つな)がる道に向かって

行きましょう。それは、この世の考え方とは全くの真逆です。
この世の人たちは、人からの誉れ

を求め、地上での栄光を積み重ねて行こうと見栄を張っています
しかし、私たちは、自分は

罪人だということを認めた上で、全能主の前に(へりくだ)り、全能主に頼って、一生懸命努力して

行くのです。その努力には、前提が根本的に違います。罪人は自分以外のお方に救いを求め、

イエス様を信じたのです。その悔いし砕かれた心が私たちの救いの原点です。ならば、その原点

で信仰の生涯を全うしようではありませんか。それが、人からの誉れを求めるのではなく、全能主

からの誉れを求めて行く生き方になるのです。この心を持って全能主に繋がる生涯を全うして

行きましょう。

  

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