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2020年6月28日
罪深い自分に幻想を抱かないで!

第Ⅰヨハネ2:1~2


(起)第Ⅰヨハネ2章1節の御言葉から、「罪深い自分に幻想を抱かないで、トコトン絶対主に

期待し、信頼して行く」ことを学んで行きたいと思います。



(承)さて、第Ⅰヨハネ2:1を見ますと、「これらの事を書き送るのは、あなた方が罪を犯さ

ないためです」とありますが、ヨハネはこの「罪を犯さないため」という言葉をどういう意味で

語っているのでしょうか。
一つはっきり言えることは、クリスチャンが「罪を犯さない」ように

なるのは、御国に入ってからです
ですから、地上にいる間は、道徳的な罪を犯さない人間になる

ことは出来ません。それなのに、何故ヨハネは「これらの事を書き送るのは、あなた方が罪を犯さ

ないためです」と語ったのでしょうか。それは、その当時、イエスがキリストであることを否定

する「反キリスト」が既に現れていたからです。
イエスがキリストであることを否定したら、御国

に入ることは出来ません。御国に入ることが出来なければ、クリスチャンが罪を犯さない者になる

ことはあり得ません。
だから、ヨハネは「罪を犯さないためです」と記すのに、接続法アオリ

スト形
を用いました。まず、アオリスト形というのは、過去形ですが、時間の流れは無視されて

いるので、時間の感覚がありません。また、接続法とは、まだ実現していないことを表現する用法

です。すなわち、予想や期待を推量して語ることです。だから、「罪を犯さないためです」という

言葉は、いつということは断定せず、
「将来的にそうされるだろう」ということを推し量って、

御国に入ることを期待して書かれたということです
だから、ヨハネは、「クリスチャンがこの

地上で罪を犯さない人間になる
」と語っているわけではありません。



(転) では、「クリスチャンがこの地上で罪を犯さない人間になる事はない」という前提で考え

た時、私たちはこの地上にあってどのように生きて行けば良いのでしょうか。それは、少なくと

も「自分の罪を度毎(たびごと)に認め、告白し続ける」ことです。(第Ⅰヨハネ1:9)
度毎(たびごと)」ということ

は、「罪を犯し続ける」という前提です
罪というのは習慣的に犯してしまう部分もありますが、

その罪に対して、「こんな事いちいち謝ったって、またすぐ同じことをやってしまうのだから仕方

ない」と言って、棚上げしてしまうことが多いのです。私たちは、子どもの頃から自分の悪習慣を

習慣的に流してやり続けてきました。しかし、クリスチャンはそういうわけにはいきません。

犯した罪を度毎に認め、その責任を取って行くのです。なぜなら、イエス・キリストによって罪の

赦しを受けたからです。第Ⅰヨハネ2:12を見ますと、「キリストの御名の故に、あなた方の

多くの罪が赦されてしまった」とあります。これは完了形で記されていますので、私たちにとっ

て、罪の赦しはもう完了しているということです。ならば、私たちは自分の罪に対して逃げる必要

はありません。罪を犯せば当然怒られますし、そこには苦々しい結果も表れますが、それでも

私たちの罪はもう赦されているのですから、素直に謝って、(へりくだ)って行く位のことはしても良いの

ではないでしょうか。そして、たとえ失敗したとしても、それで永遠の裁きに置かれることはない

のですから、新たに絶対主に頼って生きて行くことが出来る訳です。だから、「一度出来なかった

から自分には出来ない」と諦めるのではなく、何事も絶対主に頼って挑戦して行く事です。

このように、自分の弱い部分や苦手としている部分に対して、どこまでも絶対主に頼ってやって

行こうとするのが信じた者の生き方なのです。



(結) 私たちが完全に罪を犯さなくなるのは、この罪の体を脱ぎ捨て、新しい体を頂いて、御国

に入れられた時です。その時までは、この地上にあって道徳的な罪を犯さない人間になる事は

出来ません。ならば、犯してしまった罪に対しては潔く謝って行くべきです。そこで自分の罪を

隠し、良い子ぶるのは間違っています。そのように良い子ぶる動機は、肉の高嶺を目指している

からです。何故、私たち罪人が肉の高嶺を目指せるのでしょうか。もし肉の高嶺を目指せるような

要素を持っていたら、イエス・キリストが十字架にかかって死ぬ必要はありませんでした。

だから、そんなものに私たちの意識を向けるべきではありません。
目指すなら、信仰の高嶺を

目指しましょう
すなわち、どこまでも絶対主に頼って、少しでも絶対主の御心に適ったことを

やって行こうとするのです。もしそれが自分の苦手な事だったとしても、絶対主にトコトン頼って

やって行くのが、クリスチャンとしての新しい生き方です。そこに絶対主を信じる者の価値があり

ます。
なぜなら、信じる者に働く絶対主の全能の力がそこに現されるからです私たちは、それを

味わいたい一心でここまで来たのです。どうか、罪深い自分に頼らず、自分の力に幻想を抱かない

で、トコトン絶対主に期待し、信頼して行こうではありませんか。

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