2020年5月17日
『信仰による救いと信じた者の正しい歩み』
第Ⅰテモテ6章12節
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(起)まず、キリストの救いに関しては、ローマ書3章24節では「全能主の恵みにより、キリスト・
イエスによる贖いの故に、価なしに義とされるのです」とありますので、人間の救いに関しては、行い
は問われず、ただキリストの贖いを受け入れる人には、何の差別もなく、ただ信仰により完全な恵みで
救われるのです。なぜなら、全ての人が罪の下にあるため、人間には自分で自分を救う力がない
からです。だから、律法を行うことによっては、誰一人全能主の前に義と認められないのです。
むしろ、「律法によっては、罪の意識が増すだけです」(ロマ3:20)。ですから、救いはただ恵みに
より、イエスキリストを信じる信仰によって与えられるものです。
しかし、救われた者の歩みに
関しては、キリストの身代わりの死によって「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから、全能主のものであるあなた方の体と霊をもって、全能主の栄光を現しなさい。」
(第Ⅰコリント6:20)とあります。すなわち、クリスチャンの歩みに関しては、私たちの行いに
掛かっています。言い換えれば、全能主に対する献身的な歩みです。それは、人の行いが求めら
れているものです。しかし、その行いによって義とされることではありません。既に、キリスト
によって義とされたのですから、自分の義を追求していく必要はありません。ただ全能主の義を
追い求めていく生き方に転換して行きます。なぜなら、罪人の救いは、キリストの贖いによって
義とされるものですが、救われた者の歩みは、今までの歩みを180度転換して、自分のために
生きていくのではなく、「全能主の栄光のために、自分を徹底的に否定して日々自分の十字架を
負って」全能主の義を現すために生きていく歩みに、変えられて行くものだからです。
この全能主の義を表すことは、信じた者の努力が必要です。この信じた者が表す全能主の義は、
信仰の義ですから「信じるからこうします」という行いです。その例として、アブラハムはイサク
を祭壇に献げるという信仰の行いによって、信仰の義を全能主に表わしました。この信じる行い
がないと、信じたことが明らかになりません。行いのない信仰は、口先だけのもので、全能主は
そんな信仰を受け入れて下さいません。行いのない信仰は人の身勝手な気休めに過ぎないのです。
なぜなら、行いのない信仰は、「悪霊どもでさえ信じている信仰」であり、彼らは全能主を信じて
ただおののいているだけです。ですから、そんな信仰には何の価値もありません。信じる行いの
ない信仰は、悪霊が抱いている信仰と同じものなのです。
(承)さて、ここで多くのクリスチャンは躓いています。それは、「自分は弱い者だから、
キリストの恵みで救われたのです。それなのに、信じた後には行いを求められても出来ません。
出来ないからキリストに頼ったのです。なのに、信じたら、結局この世と同じように行いを求め
られるのですか?」と、聖書の言葉に疑問を挟み続けています。「生まれた時から、弱い罪人
なのですから、恵みで扱って下さい。救いはどこまでも恵みではなかったのですか?」と、なん
でも、かんでも全能主がして下さると高を括っているのです。しかし、決してそうではあり
ません。なぜなら、「信じた者はキリストと共に死んだのです。そして、キリストと共に死人の
中から甦り、新しい命の中で歩む者」とされたのです(ロマ6:4)。ということは、クリスチャン
の歩みは、古い駄目な自分に頼らず、以前の自分は既に死んだ者として、自我を徹底的に否定し、
新しくキリストと共に生きて行く歩みを始めるものです。ですから、この新しい歩みは、自分の
力でするものではありません。キリストにあって生きて行く生き方は、これまでの生き方を180度
パラダイム転換した歩みです。「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから、
全能主のものであるあなた方の体と霊をもって、全能主の栄光を現しなさい。」(第Ⅰコリント
6:20)とあるように、この命は全能主のものといわれていますので、全能主に助けられて全能主
のために生きて行くのが正しいのです。これが、救われたクリスチャンの生き方です。それなの
に、キリストの救いに預かった者が、なお生まれたままの生き方をしていたら、それは信じて
いないことになります。だから、いくら「クリスチャンです」と自称しても、新しい生き方に転換
していなければ、キリストの救いを信じたことにはなりません。ということは、「私たちが、
キリストに結びついて、その死の様に等しくなるなら、彼の復活の様にも等しく」(ロマ6:5)
ならなければならないのです。それは、信仰による新しい生き方の中に入ることです。
(転)さて、ここで大切なことは、「生まれながらの弱い罪人の私たちが、何故新しい生き方が
出来るのでしょうか?」という疑問です。その答えは、「もうキリストと共に死んだ」という事実
があるからです。これは、信ずべき事柄です。というのは、ギリシャ語のアオリスト形は過去形
を現します。しかも、この過去形は日本語にはない文法的な意味があります。それは、現在の状態
の如何に関わらず、その人に起こった過去の出来事を現します。即ち、「その人が現在死んで
いなくても、既に死んだものと見なされる」と言うことです。それが、ギリシャ語の特徴的な表現
です。しかも、この文法があるからこそ、キリストの救いがはっきりと表現されているのです。
ということは、私たちが、キリストの贖いを信じるということは、2000年以上も昔の過去に
起こった出来事を自分の事として、私たちが信じることだからです。すなわち、私たちは今死ん
でいません。しかし、キリストを信じた者は「あなた方は知らないのですか。キリスト・イエス
の中にバプテスマされた私たちは、皆彼の死の中にバプテスマされたのです。」(ロマ6:3)と
ある自分の死を、今現在死んでいなくても、過去において死んだ者として見て行くことが信仰
なのです。それが聖書のアオリスト形で示されている救いの表現だからです。すなわち、キリスト
の2000年前の死が、現在の自分の死であり、既にキリストの故に自分の罪の贖いが済んでおり、
現在の私たちが、どんなに罪深い者であっても、全能主は「私たちの不法を赦され、私たちの罪
が覆われ、全能主は私たちの罪を数えない」(ロマ4:7~8)と言って下さる救いです。だから
こそ、キリストの贖いの死は、これまでの人類の罪のための贖いばかりではなく、現在の全世界
の罪人の救いなのです。ということは、自分の罪の裁きは無効とされ、キリストを信じることで、
2000年前に終わっていたと言うことです。「ですから、キリストの身代わりの死は、今の自分の
罪の贖いであり、しかも弱い私たちは死んでしまっているのですから、キリストにあって新しく
生きて生きなさい。」ということです。その為に、キリストは私たちの罪のための贖いの供え物
となって下さったのです。
(結)では、私たちは、具体的にどのように新しく生きて行けば良いのでしょうか?
それは、生温い信仰の生き方ではなく、救われた者として、アブラハムさんのように、
「イサクを献げなさい」と言われたら、そのように素直に従う信仰です。自分の損得を考えたら、
自分の大切なものを献げることは出来ません。しかし、イサクを献げても、全能主はイサクを甦らされ
天で生かして下さいます。そればかりか、この世でもイサクを甦らせて下さいます。また、献げようと
したときに、全能主は「その子に手をかけてはいけません」とも、仰って下さるかも知れません。
即ち、この世では、もう自分の損得を考えるのではなく、全て全能主に預けた生き方を徹底していく
のが、クリスチャンの生き方です。「自分は弱いから出来ません」という弱気なことを言う必要は
ありません。なぜなら、行う力も全能主から来るからです。これからの残りの生涯は、この後患難の
中で、生きるか死ぬかの時代になります。しかし、その時は自分の命を献げていけば良いのです。
なぜなら、この世では、私たちの命は既に死んだものです。ですから、感情(我)を引いて「全能主を
第一に従って行く」という静かな心を持っていけば良いのです。クリスチャンは、キリストの贖いの
故に、罪のない新しい体によって天の住まいが約束されています。ですから、この天の御国こそが、
本当のクリスチャンの新しい命で生きる処です。それは、もうこの世の人間的な損得から解放された
場所です。だから、天では「自分の損得を否定する者」となっています。それは、地上の価値から、
天の価値へとパラダイム転換をした命だからです。ですから、今この地上にあっても、その生き方を
して行くのが、救われたクリスチャンの生き方なのです。 こういう訳ですから、私たちは今こそ
はっきりと、「信仰によって生きる」と決めましょう。それは、生まれながらの世の考え方から、
天の全能主への考えに転換した生き方です。私たちは世的な考えに引き込まれていますので、一度、
私たちの考えをリセットして、あえて空っぽにするのです。それは、パウロさんがローマ人に語って
いるように、「もし私たちが、キリストと共に死んだなら、私たちもまた、キリストと共に生きること
になると信じます」(ロマ6:8)という、生き方です。だからもう「この世の価値観では生きない」と
いう、パラダイム転換をはっきりとした歩みをしていくのです。それは、この世の拘りを放棄し、
自分の培った知識から離れることです。そして、「あなた方の体を、全能主に喜ばれる、生きた聖なる
供え物」として献げて行くのです。(ロマ12:1)これが、全能主の恵みで救われ、キリストの贖い
によって全ての罪が赦された者の、信仰による行いの中に歩み出す、純なクリスチャンの救いと歩み方
です。 |
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