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2020年5月10日
主を信じ仰ぐ心を守り通す



(起)第Ⅱテモテ317節には、終わりの時代について記されています。「終わりの時には、

苦難の時代がやって来ます。というのは、人々は自分を愛する者、金を愛する者、・・・絶対主

よりも快楽を愛する者となるからです。彼らは、主を敬うように見せながら、その(じつ)を否定

する者となってしまったからです。・・・そして彼らは、常に学んではいるが、いつになっても

真理の知識に達することが出来ない者たちです
」とあります。この御言葉は、パウロが、ヤンネと

ヤンブレたちがモーセに逆らったように真理に逆らう者たちに対して糾弾(きゅうだん)した時の御言葉

です。それは、終わりの時代に入ると、「信仰の失格者」が出てくるからだと書かれています。

(承)さて、冒頭の御言葉には「終わりの時には、苦難の時代がやってきます。」とありますが、

この時の「苦難の時代」とは、患難時代のことではなく、患難時代に近づく、今の時のことを言及(げんきゅう)

しています。なぜなら、患難時代に入ってしまえば、「常に学んではいるが、いつになっても真理

に達することが出来ない者たち
」などという、余裕などはありません。というのは、患難時代では

七つのラッパが吹かれ、天変地異から始まってくるからです。ですから、テモテの内容は今の時代

のように患難時代に近づいて行く中で起こって来る事柄です。現在、全世界はコロナウイルスに

よって混乱し、あらゆる経済活動が止まり、生活の困窮者が出て来ています。ところが、これまで

の歴史では、世界の限定された一部の地域で疫病(えきびょう)蔓延(まんえん)し、多くの人々が死亡する

という悲惨な出来事はありましたが、今回のように、(またた)く間に全世界に疫病が広がり、多く

の国々が同時に感染者を出し、たくさんの死者が出るようなことはありませんでした。恐らくこの

後、世界中が経済恐慌に陥り、多くの混乱が起こってくることでしょう。ということは、今回の

出来事は患難時代に入ったときに起こる模擬(もぎ)事例(じれい)のようなものです。しかし、もし患難時代に

入ってしまえば、クリスチャンたちには、反キリストによって迫害が始まり、家に物を取りに帰る

余裕もなく、一人一人は山に逃げて行かなければならない時代になります。ですから、患難時代

では、「信仰の失格者」と言う(なま)(ぬる)いことは言っておられません。患難の中では、生きるか

死ぬかの時代になります
。ですから、冒頭のパウロの言葉は、テモテに対して患難時代の

前触れとして伝えたのですが、今の時代の人々に対しても患難時代の前触れとして、パウロは

常にクリスチャンは、学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することが出来ない者

たち
」と言って、我々クリスチャンに警告を与えているのです。ですから、「信仰の失格者のよう

な者がたくさん出てくる時代
とは、今の時代であると言えます。

(転)そこで、私たちはパウロさんの警告を真摯(しんし)に受け止め、「信仰の戦いを勇敢に戦い抜き、

走るべき行程を走り終え、主を信じ仰ぐ心を守り通さねば成りません。」(第Ⅱテモテ47

しかし、今日の多くのクリスチャンは患難前携挙説によって眠らされ、これまで「生ぬるい」風潮

の中で育ってきました。ですから、自分の我を引いて「絶対主を第一に従って行く」という真剣

さがありません。むしろ、自分の損得を中心に考えて「自分を中心に生きる」という生き方をして

来ました。だから、今「自分を愛する者とか、金を愛する者とか、絶対主よりも快楽を愛する者」

と言われているのはピタッと当てはまる内容なのです。しかも「主を敬うように見せながら、その

(じつ)を否定する者」となっています。実にこの御言葉通り、これは今日のクリスチャンが「信仰

(じつ)の行いがない姿」を指摘されています。パウロは、そのような人々に対して、手厳しく

彼らは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することが出来ない者たちです

と言いました。そして、このような知性の腐った「信仰の失格者」は、「モーセに逆らったように

真理に逆らうのです
」(第Ⅱテモテ38)と語っています。実にこれは、我々に当てはまる内容

ではありませんか? 何故なら、長い間学んで来ても、自分の「我」を砕くことが出来ないでいる

からです。確かに口先では「砕いていきます」と言い続けて来ました。しかし、行いでは「どこまで

も自分を、心の王座に座らせています。」ですから、少し牧師から責められると心の中で言い返し、

自分を守ります。この言い返しは、相手の言葉を跳ね返している反発です。ですから今、私たちは

「信仰のパラダイム転換」を図らなければ成りません。それは、どういうことかと言いますと、

ユダヤ人はイエス様の考え方に同意出来なかった為、イエス様を十字架に付けて殺してしまったの

です。何故でしょうか?  それは、ユダヤ人が世に望みを置いていたので、「天の御国が近づ

いた。悔い改めて、福音を信ぜよ」と言われた、キリストの言葉に、価値を置けなかったから

です。それは、地上の価値から、天の価値へとパラダイム転換をしていなかったからです。


(結)
こういう訳ですから、私たちは今こそはっきりと、「信仰によって生きる」と決めなければ成り

ません。それは、生まれながらの世の考え方から、天の絶対主への考えに立つ転換です。私たちは世的

な考えに引き込まれていますので、一度、私たちの考えをリセットして、空っぽにしなければ成りま

せん。それは、パウロさんがテモテさんに語っているように、「
もし私たちが、彼と共に死んだなら、

また彼と共に生きるのです
」と語ったように、「死んだ者は、この世の価値観では生きない」という、

パラダイム転換をはっきりとすべきです。それを持つためには、本気で砕かれた心と、謙りの心を持っ

ていくと決めなければ成りません。それは、この世の(こだわ)りを放棄し、自分の培った知識から

離れることです。これは、「
信仰の戦いを勇敢に戦い、走るべき行程を走り終えるため」です。


  これは勇気ある信仰の決め事です。なぜなら、世に逆らうことになるからです。この霊的な判断を

学ぶ近道は、牧師の判断を学ばなければなりません。その時、自分勝手な自己判断で自分の意見を

入れてはいけません。まず、全部聞いてから、判断する 習慣を身につけることです。分からない

ところは謙って聞けばいいのです。その為にパウロさんは、「
あなたがたの間で労し、主にあって

あなた方を指導し、かつ訓戒している人々を重んじなさい。
」といいました。牧師の話を聞いて、

途中から否定的な意見を口に出すべきではありません。少し分かってくると、人は、自分の意見を

言いたくなり、その意見を語る為に、まず相手を否定してから自分の考えを言おうとします。

これが一番悪いのです。自分の意見を言うより、聞く方が大切です。ですから、普段から下手に出る

ように心懸け、その心を自分の当り前の「砕かれた心」にするのです。どうか、この世の考えは、サタン

がエバに入れた知識であることを肝に銘じて下さい。それより、聖書から霊的な知識を身につけ

ましょう。そして、
恥じるところない働き人として絶対主に自分を献げるように努めましょう。

それが「
主を信じ仰ぐ心を守り通すことです。

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