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2020年5月24日

救われた罪人の特徴と、御霊による歩み


(起)ロマ書6章では、「私たちの古い人は、キリストと共に十字架に付けられました。それは、この

罪の体が滅ぼされて、もはや私たちを罪の奴隷として仕えさせないためです。」(ロマ66)と語られて

います。この御言葉を読むと、救われたクリスチャンは、いかにも罪を犯さない人間にされたように

書かれていますが、しかし、決して そうではありません。人の罪は贖いであって、人は自分の罪の

ために、一つも努力していません。だから、自分は罪人のままであるのが現実です。その為、自分が

地上で犯した罪の負い目は、そのまま一生涯自分が負って行かねばならないものです。しかしながら、

「古い人は十字架に付けられ、罪の裁きは終わっている」とか、「罪の体は滅ぼされて、罪が赦され

た」という御言葉は、アオリスト形の表現ですから、今実感がなくとも、キリストにあってなされた

ことは事実です。それは先週も記しましたが、アオリスト形の表現は、
(ギリシャ語のアオリスト形は

過去形を現します。しかも、この過去形は日本語にはない文法的な意味があります。それは、現在の

状態の如何(いかん)に関わらず、その人に起こった過去の出来事
を現します。即ち、「その人が現在死ん

でいなくても、既に死んだものと見なされる」と言うことです。それが、ギリシャ語の特徴的な表現

です。)
現在の状態の如何(いかん)に関わらず、その人に起こった過去の出来事ですから、現実には死んで

いなくても、すでに死んだ者として記されているのが、
聖書の表現です。それは、救いが自分の努力で

はなく、すでに2000年前になされたキリストの身代わりの死によって成就した事柄(ことがら)だからです。

この贖いは、罪人の当人は何もしていませんが、ただ過去になされていた贖いの事実を、ただ信仰に

よって受け入れただけで、それを信じた者に対して「古い人が十字架に付けられ」、また「罪の体が滅ぼ

された」と、全能主は見なして下さっているのです。だから、キリストによって、私達の罪は贖われて

おり、完全な罪の赦しを頂いているのは、間違いの無いことです。そこで、キリストの救いを信じた者

には、全能主から「罪を数えない」と言われており、私達の罪は、「全能主の前に覆い隠された」と

言われ、完全に赦されたのです。それはすべて、キリストの御蔭(おかげ)です。ですから、本人は何も変わって

いなくても、「古い人は死んだ」ということは、全能主がキリストにあってそれを認めて下さっている

のは間違いないことです。だから、クリスチャンの現実は、「
キリストによって救われた罪人だ」という

のが正解です。


(承)さて、ここまでは、頭の上ではよく理解できますが、現実にクリスチャンとしての歩みに

なると、多くのクリスチャンが(つまづ)いているのが現実です。それは、信じた者は、「罪の奴隷

として仕えさせない
」(ロマ66)とか、「死んだ者は罪から解放されている」(ロマ67)と

記されていますが、実際の生活とは大きく()け離れているからです。また、「今や、あなたがた

は罪から解放されて、聖潔に至る実を結んでいます
。」(ロマ622)とも言われていますが、

そのようになっていない自分がいるのが現実です。ただでさえ、私たちの状態は、この聖い生き方

とは()け離れた者であるのに、この御言葉からは、信じたクリスチャンは皆、聖人になって

しまったように書かれているのです。ここに、クリスチャンが、苦しみチャンになってしまう現実

があります。では、この御言葉を私達はどのように理解すれば良いのでしょうか?本当に、クリス

チャンとして全能主を証する正しい歩み方が出来るのでしょうか?そこで、ロマ書7章を見ると、

罪に対して死んだと語っているパウロさんでさえ、苦しみチャンとしての一面を手紙の中に残して

います。「私は、私の肉の性質の内には、善が宿っていないことを、知っています。なぜなら、

善をしようとする意志はあっても、それをする力がないからです。
」(ロマ718)と正直に認め

ています。また「御霊の初穂を頂いている私たち自身も、心の内でうめきつつ、子の身分を授け

られること、すなわち体の贖われることを待ち望んでいるのです。
」(ロマ823)と訴えてい

ます。彼は、聖い者でありたいと願っても、そのように出来ない現実の肉の性質の中で
苦悩して

いた
ことが分かります。ということは、パウロさんでさえ「キリストによって罪から解放された

自分の立場
」を持ちつつ、もう一面として「生まれながらの肉の性質の故に苦悩している自分

を抱えていた事がよく分かります。



(転)
では、パウロさんでさえ、こんな二面性を抱えていたのに、本当に私たちが、献身的になれるの

でしょうか? 次の聖書の勧めを読むと、更に、どうして良いのか分からなくなります。「
だから、

あなた方の死ぬべき体を罪の支配に委ねて、その情欲に従わせてはなりません。また、あなた方の体を

不義の器として、罪にささげてはなりません。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身と

その手足を義の器として全能主にささげなさい。
(ロマ61213)とあり、信じた者なら当然のよう

に義の器となるように求められています。もし、私たちがこの通り出来れば、救われた者として、

こんなありがたいことはありません。クリスチャンなら、皆こうありたいと願っているのは当然でしょ

う。しかし、残念ながら「
私は、なんという惨めな人間なのでしょう。」(ロマ724)と、またパウロ

さんは言いました。まさにその通り、「善をしたいという思いがあっても、その通り出来ない」のが、

私たちの現実の姿です。すると、聖書に書いてあるから、出来もしないのですが、如何(いか)にも出来る

ように振る舞って行くのがクリスチャンなのでしょうか? そんなはずがありません。偽善者になるの

が、全能主の御心ではないはずです。では、このクリスチャンの現実的な苦悩をどのように解決したら

良いのでしょうか? 本来クリスチャンなら、当然献身的でありたいと願うでしょう。しかし、罪人で

あるという現実から抜け出せない以上、到底無理です。しかも、この肉の性質は、一生涯負っていか

ねばならないものです(ガラテヤ220)。こんな難問に、答えがあるのでしょうか? 実は、その答え

がロマ書812~13節にあります。この御言葉には、「私たちは肉にあって生きていても、肉の性質に

従って生きる義務は
ありません。
とあります。なぜなら、信じた者に与えられた特権である御霊の

内住があるからです
ここに、大きなヒントが隠されています。それは、私たちに内住する御霊は、

弱い私たちを助けて下さるからです」とあります。どのように助けて下さるのでしょうか?それは、

私たちの意識、すなわち私たちの考え方を変えさせることです。どのようにかと言いますと、ここが

大切なところです。
すなわち、私たちの生まれながらの、自分の中から出てくる凝り固まった自分中心

な考え方から、即ち
「出来ないと思うとすぐ逃げ出し、楽な考え方に逃げ込もうとする自分の消極的な

思い」
から、もう一人の「御霊の思いから出てくる諦めない発想」に、私たちの心を変えさせること

です
。すなわち、全能主の側から考えるということです。全能主は、私たちにどのように語っている

のでしょうか? それはロマ68節に、「
もし、私たちが、キリストと共に死んだのなら、私たちも

また、キリストと共に生きることになると信じます
」というのが、全能主の側から考える発想です。

それは、「キリストが共にいる」という意識を持たせて、人間の限られた発想から離れ、「
イエス様が

いるからできる
」という考えの中に入って行かせるものです。御霊は、この考えの中に導き、私たちを

キリストを信じるから、そうする」という心の転換へ導くのです。私たちがこの気持ちに心を変える

ことを、御霊はいつも願っています。しかし、私たちは、その御霊の声が分かっていても、あえて自分

の弱さに目を向けて「駄目だ」と思ってしまうのです。それは、恥をかかず、何とか自分を守って、

楽な方向に向かいたいからです。なぜなら、それは、いつも自分の都合の良いように考える肉の性質の

気持ちに傾くからです。しかし、「
もう私たちは、肉の性質に従って生きる義務はないのです。」

ですから、自分の肉の弱さの中で考える必要はありません。もし、考えるのなら、
キリストにとって

都合の良いように考えたらどうでしょうか?
そうすれば、自分の肉の執着心からも解放され、自由な

心を持って平安が来るでしょう。苦しみチャンになるのは、いつも自分に都合良く考え、自分に楽な、

自分を守ることばかり考える思いに執着しているからです。私たちは、自分の心情と身の上を全能主に

明け渡せば、執着心から解放されます。すると、「
御霊によって体の行いを死に渡すなら、あなたは

生かされます
」【ロマ813】という御言葉が実現します。

 この
キリストの考えで生きるというのが、御霊によって生きるという「味噌」です。(すなわ)ち、

霊的な生き方の「秘訣」です。御霊によって生きるのは、「肉にあって生きていても、肉の性質に

従って生きる義務はない
」ということです。それは、御霊(みたま)()自身が、私たちの霊と共に、

私たちが全能主の子である
ことを証して下さっているからです。(ロマ816)この生き方は、

私たちの自己推薦ではなく、内住の御霊が「全能主の子」であると証して下さることであり、

その恵みの特権に感謝して、卑しい罪人の肉にあえて留まるのではなく、「全能主の子」として

取り扱って下さる全能主のお心に、私たちの霊(内なる人)が反応し、私たちが全能主に信頼

するが故に、この体を全能主に喜ばれる、「生きた、聖なる供え物として献げなさい。それが、

あなた方の霊的な礼拝です
。」(ロマ121)という生き方に変えていくことです。この御言葉に

ある通り、自分たちの気持ちを全能主の方に積極的に変えさせ、生きて行こうとさせるのが、

御霊の発想であり
、主に感謝する心の応答ではないでしょうか
?これは、「しなければならない」

という義務感からするものではありません。もちろん、自分に言い聞かせて律法的に出来るもの

でもありません。だから、御霊の導かれるところから出てくるものは、私たちの自発的な信仰の

行いとなるのです。もし自発的なものなら、重荷にはならないでしょう。その自発的な行いを

全能主は喜んで下さり、内住の御霊も願っておられることです。



(結)
このように、この自発的な行いこそ、御霊が導くところであり、信仰の行いというものです。

この自発的な行いは、私たちの献身でもあります。この献身は決して義務感ではなく、どんなに弱い

私たちであっても、「
全能主のために生きて行きたい」という自発的な願いが献身に向かわせます。

そして、その心には損得勘定の入った見栄でもなく、名誉心でもありません。それがもし本物の献身

なら、損得勘定なしの心が出て来るはずです。そして、本物の信仰は、全能主に懸け切るものです。

もし懸け切るなら、清濁併せ飲んで、生きるも死ぬも全能主に任せ切って行くのです。しかし、多く

のクリスチャンは、いざ全能主に任せ切った生き方をして行こうとする時、臆病になるのです。

それは、自分の力を超えたことを求められたら、自分はやっていけないと、不安になるからです。

しかし、全能主は、その人が出来ないと思うことは、「
キリストに頼って行きなさい」といわれ、

決して、私たちを独りぼっちにはさせません
。困難の中でも必ず全能主は全てを見ておられ、必要に

従って助けて下さいます。だから、
本物の献身は、清濁(せいだく)(あわ)せ飲むことを忘れてはいけません。自分たち

にとって嫌な、苦しい中を通って行くことは避けたいと思うかも知れませんが、パウロさんもむち打た

れ、難破し、飢え渇き、裸でいたことがあると言っています。それは、決して義務感でしたことでは

ありません。彼は、苦難も清濁併せ飲んで行きました。だから、すべて全能主に任せ切れたのです。

しかし、自分の義務感や名誉心のためにすれば、少し嫌なことが起こって来ると、止めてしまいます。

それは、「()って上げていた」という恩着(おんき)せがましさが出てくるからです。それは、心を注いだ

本物の信仰から出たものではないからです。多くのクリスチャンの場合、見せ掛けでしてしまうことが

よくあります。ただその場(まか)せで、適度な距離感を持って、失敗して怒られないように、上手(うま)

やろうとします。そして、
自分が出来ることしかせず、不もなく可も無い仕え方をして、主に仕えてい

く義務感だけを果たして行こうとするのです。
この心のない信仰は、微妙な損得勘定が働いているもの

ですが、それに自分が気づいていないのは、悲しいことです。その人は、それしか出来ないと思い込ん

でいるのです。そうではありません。クリスチャンなら皆、全能主に喜んで貰いたいと思っているはず

です。ですから、私たちは、全能主に喜ばれる献げものとなって、御国を目指して行きたいと思い

ます。信仰に本音と建て前の二心を入れてはいけません。全能主を利用することになってしまいます

から。クリスチャンの歩みは、「
肉にあって生きていても、肉の性質に従って生きる義務はない」の

で、「御霊の導きの中で生きる」
という生き方です。古い自分に頼らず、「自分は既に死んだ者」とし

て、自我を徹底的に否定し、新しくキリストと共に生きて行く歩みを始めましょう。この新しい歩み

は、自分の力でするものでは無く、「
御霊の助け
」の中でして行くのですから、全能主に聞いて、徹底的

に全能主に預けた生き方をして行くのです。そして、どうか、キリストにあって肉の生き方を180

パラダイム転換した歩みの中に、飛び込んで行きましょう。これが、救われたクリスチャンの生き方

です。
もし私たちが、キリストと共に死んだなら、私たちもまた、キリストと共に生きることになる

と信じます
(ロマ68)

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