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2020年4月26日
『心の王座を変える


(起) 私たち人間は、自分の心は自分のもので、自分は自由意志で考え、常に自律して生きていると

思っています。しかし、現実はそうではなく、
自分の内には二つの心が対立しており、どちらの判断に

立つべきか、いつも迷いの中に在ります。
それは、善・悪の二極の思いが心の中で(せめ)ぎ合っている

からです。ですから、「理屈では分かっていても、心がついて行かない」と、なかなか決断が出来ま

せん。そこで、パウロさんが言うように、「私は、自分のしていることが分かりません。なぜなら、

自分のしたいことは行わず、かえって自分の憎む事を行っている」(ロマ715)と言うようになるの

です。それは、私たちの心の王座には、二つの相反する心が座っているからです。その場合、どちらが

自分の本当の思いなのかは、自分でも分からない時があります。


(承)さて、このような二心はクリスチャンにとっても、やっかいな現実の問題です。キリストを

信じた者は、当然全能主にあって生きて行くと決めています。しかし、その生き方を通していけるか

どうかというと、そう簡単にはいきません。この世の 中は損得勘定が判断の基準になっていますか

ら、
自分だけが全能主を第一にして 綺麗事の信仰で生きて行くと決めても、周りが赦してくれま

せん。周りはすべて、損得勘定の価値観で成り立っているからです。
ですから、自分一人が信仰の

世界を求めて全能主を第一にして純粋に生きて行こうと思っても、この地上ではその純な心は通用

しません。

(転)では、クリスチャンはこの世の価値観の中で、妥協して生きて行くのでしょうか。

いいえ、信じた者として妥協などしたくありません。なぜなら、クリスチャンは、天の御国を求めて

いるからです。クリスチャンは、自分が罪人であるという事実と、その罪人が、絶対に逃れることは

出来ない裁きがあることを知りました。しかし、そんな罪人であっても、そこに救いがあることも

知ったのです。その救いは、キリストの贖いによって、罪の身代わりの代価が払われたが故に、命を

閉じた後に地獄の裁きではなく、救われた者が入れて頂ける天のパラダイスがあることを知ったの

です。ですから、クリスチャンは地上に望みを置く者ではなく、天に望みを置く者となったのです。

ということは、この世に生きてはいても、この世の価値観で生きて行く者ではなく、全能主を第一と

する価値観の中で生きて行く者です。
この生き方は、未信者には理解されません。全能主と天のパラ

ダイスは、目には見えないからです。しかし、私たちは「信じました。」ならば、人が何を言おうが

全能主を第一にする生き方
をして行きたいのです。それは、この世では単なる綺麗事かもしれま

せん。なぜなら、この世の損得で生きないからです。しかも、目指すところが天のパラダイスだから

です。しかしそこには矛盾もあります。それは、たとえ天のパラダイスを求めていても、
今はこの地上

で生きている者だということです。
この地上で生きているからには、この地上の物が必要です。

しかし、全能主はそこで言われました。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を

着ようかと言って思い煩うのは止めなさい。これらの物はみな、異教徒が切に求めているものです。

あなた方の天の父は、これらの物が、ことごとくあなた方に必要であることを知っておられます。

ですから、まず第一に、全能主の国と全能主の義とを追い求め続けなさい。そうすれば、これらのもの

は、すべて添えて与えられます。」(マタイ63133)と、全能主が宣言されたのです。ならば、

地上にあって生きている間、地上で必要なものは、全能主が与えて下さると信じて「全能主を第一に

する生き方」を、全能主の言葉を信じて始め出すべきです。しかし、それを信じなければ、私たちの心

は、地上の事を追い求める心と、天のパラダイスを求める二心を持つことになります。それは、心の

王座に、二人の主人を据えることになり、ある時は、地上の価値観を心の王座にし、ある時は、天の

パラダイスの価値観を心の王座にします。これではクリスチャンは、この世で一番の偽善者で、

本音は損得の中で生きる者だ」ということになります。これでは、信じたときの純な心を失うこと

になるでしょう

(結)さて、結論ですが、クリスチャンは、本音と建前を使い分ける、嫌らしい見せかけの信仰者

になるのでしょうか。そんな生き方はしたくありません。すると、ここに本気で全能主に懸けて生きる

生き方が求められます。その為に、どうしてもクリヤしなければならない事があります。それは、この

世の損得勘定を王座に据えている自分を押し出し、全能主を第一とする心で、私たちの心の王座を据え

換えることです。
普段は、自分を守ろうとする心を、当たり前のように心の王座に座わらしているのが

現実です。しかし、それでも、いざとなれば全能主を第一にして考え、全能主を自分の心の王座に据え

換えるのです。
その事を当たり前にするには、「自分は全能主に懸けて生きるから、この世の必要は

全能主から貰う」と決めることです。
それは、仙人のように(かすみ)を食べて生きることではありません。

最低限、自分が生きるための仕事には励むべきです。「働かざる者、食うべからず」(Ⅱテサロニケ3

10
)と御言葉にもありますから。しかし、全能主を第一に生きていく者は、金儲けのために生きる訳

ではありませんから、人生の中でどうしても多額の必要が起こって来た時(例、大病を患うとか、

子供の進学の学費の必要とか、家を新しくしなければならない等)に、困り果て、どう対処したらいい

のか迷います。しかし、その時こそ、全能主を信頼すべきです。全能主を第一に生きていく事は、二兎(にと)

を終えません。「二兎(にと)を追う者は一兎をも得ず」です。しかし、牧師は1兎を追い続け、この

純な生き方を半世紀間続けて来ました。そして、すべてを全能主から頂きました。ですから、皆さん

もまず、全能主を第一にして求めて下さい。この信仰の生き方は、心を定めなければ始まりません。

 それは、マタイ633節の御言葉に立って、生きるかどうかに掛かっています。
これを本気で決めて

純な信仰を始め出すことです。
その時、臆病風に震える心が自分の心の王座に入ってきます。しかし、

その時こそ、心を強くして主に従うと決めた純な信仰の心で追い払い、追い出して、心の王座に、

全能主を第一に考える心を据えるのです。
これを通すかどうかに掛かっています。そして、その決め

事の故に、綺麗事の信仰を通して行くのです。(ジョージ・ミュラーは、これを貫徹した人です)人

の心には、二つの相反する心が働くことを知って下さい。そして、
肉の王座から、全能主を心の王座に

迎えると決心する
決め事を、純な心で全能主の前に定めて下さい。この決め事を、心の王座を据える

のは、あなたの純な信仰に掛かっています。



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