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2020年3月29日
死に至るまでもいのちを惜しまず

黙示録12:10~12


(起)黙示録12章11節の御言葉から、「龍に打ち勝ち、死に至るまでも自分たちのいのちを

惜しまなかった」という信仰を全うするために、どのように龍に対応していくかを学んで行き

たいと思います。


(承) さて、11節を見ますと、「兄弟たちは、小羊の血と、彼らの証の言葉とによって、

その龍に打ち勝ち、死に至るまでも、自分たちのいのちを惜しまなかった」とあります。

この「龍」とは、ルシファー、悪魔、サタン、蛇のことです。私たちのイメージでは、ルシファー

は、本来目に見えない存在ですが、患難時代ではルシファーは人の形をとって、人々に現れ礼拝を

求めて来ます(黙示録13:4)。そして、聖徒に極限の迫害を加えて信仰を捨てさせ、全能主に

逆らわせて、龍と同じ裁きへと人間を引きずり込もうとします。その為に666の獣を使うの

です。それでも音を上げず、命を惜しまずに信仰を全うする聖徒がいたなら、それは全能主の勝利

です。全能主は、そういう者たちをたくさん起こすことによって、「お前の企みは(なん)の意味も

ない。私が創った者たちは、ちゃんとこうして信仰を表して、わたしの所に来ているのだ」という

事実を、ルシファーに突き付けようと考えておられるのです。


(転) それなら、私たちはどのように「自分の命を惜しまずに信仰を全うする者」として、龍に

打ち勝っていけば良いのでしょうか?それは、常に全能主の側から物事を考えて行くことです。

しかし、全能主の側から物事を考えて行く時に、一番大切な事は、自分の心の中に、「自分の思い

でパンパンになっていてはいけない」ということです。私たちの思いがパンパンなら、全能主の

考えは私たちの心の中に入って来ません。それは、いつも私たちがルシファーの影響を受けている

からです。ルシファーは、エバをそそのかして、「自分で考えて判断したらいい」と言って、善悪

を知る木の実を食べさせました。それによって、人間は赤ん坊の頃から、自分の思いでパンパン

で、人の考えを入れようとしません。だから、人間は生まれながらに自分の思いを通そうとし

ます。そして、保育園、小学校、中学校、高校、大学と、学べば学ぶ程、自分自身の考えや自分の

知識で頑固になり、人の考えを聞き入れなくなってしまいます。すなわち、自分の考えや知識が

自分の偶像になり、「人の権威に従いたくない」という思いの虜になるからです。もしこのままの

状態で患難時代に入ったらどうなるでしょうか。常に自分にとって都合の良い方に向かい、都合の

悪いことは拒否して「自分は苦しみたくない」という思いの虜になります。すると、全能主より

自分の思いが優先し、心の中は、いつも自分の思いでパンパンになり、全能主の御心に従うことが

出来なくなります。これでは、果たして「自分の命を惜しまずに殉教する者」となることが出来る

でしょうか。「出来ません。」逆に、自分にとって嫌なことばかり起こってくる状況に耐え切れ

ず、音を上げてしまう危険性があります。もしそうなれば、悪魔の思う壺です。だから、私たちは

「空っぽの器」になるべきなのです。
「空っぽの器」とは、自分の思い、自分の考え、自分の知識

から離れるということです。そして、全能主の側から物事を考えて行くことです
私たちは、

自分の考えや自分の思いが正しいと思ったら、梃子(てこ)でも動きません。しかし、こんな感情は

大間違いです。むしろ自分の考えに立つことは、「ルシファーに従うことになってしまう」と、

気付くべきです。「その感情がどれだけ間違っているか」、「自分の思いに立つ事が、どれだけ

全能主の御心に反することなのか」を悟るべきです。そして、
心を空っぽの器にして、聞く姿勢に

変えていくべきです。
それをして初めて全能主のお考えが私たちの心の中に入ってきます。それが

出来れば、全能主のお考え通り、私たちは患難時代で
「命を惜しまずに殉教し、勝利を得る者と

なる」
ことが出来るでしょう。その為に今、その心を当たり前のように養っていく必要があり

ます。


(結) こうして、
私たちは自分の考えを横に置き、まず聞く姿勢を持って行くべきです。

「私は、こう習ったからこうする」、「私はこう思うから」、「私はこうでなければ嫌だ」と、

いつまでも「私、私」では、死ぬまで「空っぽの器」にはなれません。こんな思いを心に満たして

いては、私たちは「最後の最後まで自分の考えに立ち、全能主の考えに立つ」ことができなくなり

ます。ですから、
私たちは「空っぽの器」になり、そこに油を満たして頂き、死に至るまで 

命を惜しまず信仰を表して、ルシファーに信仰を突き付けて行きたい
のです。これがクリスチャン

としての生き方であり、信仰の生涯の締め(くく)りの奥義です。どうか、一人一人がこの奥義を

掴み、「死に至るまでもいのちを惜しまなかった」という信仰の生涯を全うしようではありま

せんか。

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