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2020年3月22日
霊的な達成感を味わっていくために

ヨハネの黙示録 3:7~13


(起)黙示録3章8節の御言葉から、「霊的な達成感を味わって行くために、諦めない心で

努力し、主に信頼し続けて行く」ことを学んで行きたいと思います。


(承)さて、今日お読みした箇所は、すでに30年前から私たちの教会に与えられた御言葉で

あり、講壇の前に(かか)げられてきた聖句です。そして、昨年の正月にも同じ御言葉が全能主から

与えられ、改めて心に留めさせられました。ですから、私たちはこの御言葉を素通りしてしまうの

ではなく、全能主から私たちに与えられた御言葉として受け取り、この御言葉通りの生き方を

して行くことを学んで行きたいと思います。まず、この生き方は具体的にどういうものかと

申しますと、8節を見ると、「あなたには少しの力しかなかった」とあります。この
「少しの力」

とは何かと申しますと、
「自分は罪人だと認めること」です。私たちは罪を犯して叱られた時に、

「次はきちんとやります」と言えるだけの力はありません。だから、弁解せず、その過ちの事実を

そのまま認め、腹の底から「すみませんでした」と謝るだけの者です。そのように、お叱りの言葉

を自分の心の中に入れ、「自分が間違っていた」と認めるなら、それは「罪を罪として否まず、

そのままに受け留めた」ということですので、キリストの十字架の贖いの故に、全能主はその者に

対して「誰も閉じることのできない門を開いておいた」と言って、私たちを御国へ入れて下さるの

です。そして、11節を見ますと、「あなたの冠が、誰にも奪われないように、自分の持っている

ものをしっかりと握っていなさい」とあります。冠が与えられるということは、全能主がその者を

認めて下さったことのしるしです。私たちは全能主の前に認められるようなものは何一つありま

せんが、少なくとも罪を犯して叱られた時に、そのお叱りの言葉を心の中に入れて「砕かれた

悔いし心」だけは持つようにしています。すると、全能主は、「わたしはその者を軽んじない」と

言って下さいますから、それが全能主に認められたということです。この冠は、全能主の許に

近付けることの証しですから、絶対に手放してはいけません。全能主は、こんな有り難い御言葉を

私たちの教会に与えて下さいました。ということは、全能主は「私たちのことを非常に前向きに

見て下さっている」ということです。


(転) だから、まず私たちに必要なものは、「自分は罪人です」と認めた「砕かれた悔いし心」

です。落ちるところまで落ち切ってしまえば、「自分は叱られて当然だ」と思えます。すると、

叱られることを嫌がったり、おどおどすることはなくなります。すると、罪を犯して叱られたと

しても、その瞬間に「すみませんでした」と言うことができます。それは、自分が罪人である

ことを全面的に受け留めているということです。それだけで、全能主は「わたしはお前を軽んじ

ない」と言って下さるのですから、私たちはそれを当たり前のようにして行きたいと思います。

そして、おどおどしないで大胆に全能主に近付き、「何でもやらせて下さい」と叫んで行くの

です。
たとえ、力がなくても、ただ罪人であることを認め切った者には、全能主が力を与えて

下さいます。
未信者なら、その力を自分で手に入れるしかありません。人間は、いくら頑張っても

手にすることの出来ない限界があります。ですから、そこに全能主の助けがなければ、一生涯

うだつの上がらない者で終わってしまいます。ところが、私たちはそうではありません。ただ罪人

であることを認めただけで、全能主から力と賜物を頂き、そこに1つずつ積み上げて行くことが

出来るのです。これは感謝なことです。


(結) 私たちはこれだけの約束の言葉を頂いているのですから、本気で始め出そうではありま

せんか。そして、
自分の力でやるのではなく、「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という

ことを味わって行くのです。
そのためには、たとえ失敗をして叱られても、諦めずに全能主に

信頼し続けて行く遜った心が必要です。そして、そこには、信仰の努力が必要です。それをし続け

て行った者には、全能主が力を注いで下さり、「出来た」ということを味わわせて下さいます。

その「出来た」ということを味わうと、霊的な達成感で満たされ、全能主にあって自信も湧いてき

ます。しかし、自分を卑下して、初めから「自分はダメだ」と決めつけている人は、信仰の努力を

しません。そのような人に対しては、全能主も「情けない奴だな」と言われ、力を注ごうと思って

も注げないのです。当然、その人は霊的な達成感も味わえません。霊的な達成感は、喜びとなって

次に繋がって行くものです。ですから、私たちはどこまでも全能主に信頼し、前向きに努力して

行くのです。自分が罪人であると自覚したら、次のステップは
「前向きな努力」です。主に頼って

何でもやって行こうとする気持ちさえあれば、全能主も力を注いで下さり、事は始まります。

どうか、罪人であることを当たり前に認め、諦めない心で努力し、主に信頼し続けて行くことに

よって、霊的な達成感を味わって行こうではありませんか。

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