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2020年3月1日

もはや自分のためではなく、キリストのために

第Ⅱコリント5:15~17


(起)第Ⅱコリント5章15節と黙示録21章2節の御言から、「患難時代に突入するまでの残り

の生涯を、主を信じる信仰を(あかし)し、もはや自分のためではなく、キリストのために生きて行く」

ということを学んで行きたいと思います。


(承) さて、第Ⅱコリント5章15節にあるように、私たちは、「自分のために生きるのでは

なく、キリストのために生きて行く」という意識をはっきりと持って行くことが勧められてい

ます。なぜなら、世の終わりは刻々と迫っており、患難時代が迫っているからです。私たちクリス

チャンが、主を証する時間はそんなに多くはありません。確かに、私たちは証しの力が弱く、

取るに足りない者ですが、だからといって後ろを振り向いていてはいけません。弱い自分を自覚 

させられても、「もうダメだ」と諦めてはいけません。「絶対主に受け入れられた人は、信仰に

生きる」(ガラ311)者であり、前に進んで行くべきです。すなわち、
「自分のために生きる

のではなく、キリストのために生きて行く」という前向きな心を表して行くのがクリスチャン

の生き様です。
今の一番苦しい時、力のない時、どうにもならない時こそ、どこまでも諦めずに、

絶対主を信じる信仰の故に、前に向かって行こうとする心が、私たちには必要です。この心こそ、

これから始まる患難時代を通って証して行く者の心だからです。


(転) では、信じる信仰を患難時代の最後まで全うした者は、どんな幸いに預かるのか黙示録

を通して見て行きたいと思います。まず、黙示録には七つの教会に手紙が書き送られた記録が出て

来ます。
この手紙は、「聖徒たちが信仰の戦いを勇敢に戦い、『勝利を得る者』となるように」

と願って書かれました。
そして、「勝利を得る者」が受け継ぐものは、「聖なる都エルサレム」

です(黙217
。この「聖なる都に入るのは誰か」と言いますと、「勝利を得た者」すなわち

「小羊の花嫁」とされた人々です(黙2127)。この「小羊の花嫁」となる人々は、具体的に

誰を指すのかと言いますと、それは、黙7章9~17節の「大きな患難を通って来た人たち」で

あり、彼らには聖なる都で「御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、命の水の泉に

導いて下さる」(黙2117)者たちのことです。ですから、小羊の花嫁は、
患難時代の「勝利を

得る者」であり、その人々は、患難時代の殉教者だ
ということがはっきり分かります。そして、

彼らこそが、七つの教会に宛てて書かれた手紙の「勝利を得たクリスチャンたち」のことです。

(黙312
ということは、「勝利を得たクリスチャンたち」は、「聖なる都エルサレム」の

中へ、「小羊の妻」(217219)
として入って行く人々です。このことは、これから患難

時代を通って行く全てのクリスチャンに対して語られており、決して他人事ではありません。

現代の多くのクリスチャンは、「聖徒たちは患難時代の前に天に挙げられる」と考えていますが、

聖書にはそのようなことは一つも書かれていません。クリスチャンの携挙については黙14章

13~16節に記されていますが、その前の13章では、獣が出現していますから、ほとんどの

クリスチャンは14章12節までに殺されてしまいます。その時に、まだ殺されずに生き残った

者たちは、黙14章13~16節で携挙されるのです。だから、クリスチャンが患難時代に入る

前に天に上げられるということは決してありません。{この患難前携挙説は、19世紀の終わり

頃から20世紀の初めにかけてスコフィールド・バイブルが出版され、流行(はや)り出したディ

スペンセイション主義によるものです。}ですから、勝手に考え出された教理に惑わされてはいけ

ません。
何のために黙示録が書かれたのか?それはクリスチャンが、患難を通って、「勝利を得る

者」となるためです。
患難時代には、獣が聖徒に戦いを挑んでこれに勝つ事が許されます。

すなわち、聖徒は獣に命を懸けて証をし、殉教していくのです。と言うことは、主を信じる信仰を

証しした者たちには、素晴らしい報いがあります。それは、「勝利を得た者」として、「小羊の

妻」となって「聖なる都」に入れて頂けるということです。


(結)先程申し上げたように、現代の教会の多くは、「クリスチャンは患難時代を通らない」

という中で安住しています。それは、眠ったままのクリスチャンとなることです。聖書には「目を

覚ましていなさい。」とありますから、クリスチャンが患難時代を通ること無く、天に挙げられる

なら、眠っていても良いことになるでしょう。しかし、黙示録は、すべてのクリスチャンに語られ

たものです。ということは、そのまま受けとめ、そのリスクを受け留めた中で、尚信じ続けて行く

熱い信仰でなければ成りません。熱くもなく、冷たくもないクリスチャンでは、吐き出されてしま

うのです。

 だから、頭だけの信仰ではなく、信仰の行いが必要なのです。すなわち、自分がどんなに罪人で

ダメ人間であろうが、後ろを振り向くことなく、どこまでも絶対主に期待し、絶対主を見上げて

いくのです。その心を持っている者が、最後には「勝利を得る者」になるのです。もし敗北を

望まないなら、「絶対主の全能の力によって、強くされ続けなさい」(エペソ610)。とあり

ますから、クリスチャンは雄々しく信仰に立ち、患難時代で主を信じる者の信仰を、獣に大胆に

突きつけて、キリストのために生きて来た生涯の証しを残して行こうではありませんか。

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